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青葉奉納  作者: 昨日の風
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都落ち

 いつをその起点とするかは議論が分かれるところであろう。だがとりあえずここでは平清盛の太政大臣となった仁安二年(1167年)をその起点としておこう。

 平氏の栄華は、一代の英雄平清盛によって築かれ盤石とされ永遠のものとされた、かに見えた。平安の世にあっては百官は浮沈はあるにせよ世襲により、氏族の内部や養子縁組などでの交流が基本であり、今回のように氏族ごと大きく入れ替わる政変などめったにあるものではなかった。

 そのために清盛の弟経盛の目にも不安材料はないようなものであったし、ましてその末子である平敦盛にとっては、この繁栄は約束されたかに見えた。


 実際、14歳の平敦盛自身、従五位下であるにはあるが散位(特に役に付いていないこと)であったため無官太夫と謙遜してはいた。もっとも5歳の時から足掛け4年間、京への一大供給産地であり天皇陛下への食料を供給するという最重要地の|御食国<みけつくに>の一つ、若狭の太守を務めており、しかも大過なく勤め上げている。とはいえ、敦盛自身、自身の能力ではなく平氏という氏族の力、特にその最上位の一人である父経盛の末子であるためであるのは、まだ幼い自身にも痛いほどわかっていたことではあったが。

 ともあれ、太政大臣という官位の力は、いや平氏一門の力は、既に何の力もない幼子まで任官させるほどの力があり、それは力ある大人がいかに努力しても敵わぬものであった。


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 高い地位によって様々なものが与えられたが、高い教養も与えられたものの一つであった。若狭守任官当時も京での生活は続き、教育は続けられていた。

 子供のこととて四書五経の素読は当然として、息抜きとしてではあるが当世ものとして伊勢物語、今昔物語、陸奥話記といった、歌物語、説話集、軍記物も与えられた。将門記を所望したことがあるが、これは謀反人について書いた本とて叶えられなかった。

 貴顕の一人になるとて和歌を習ったが、こちらはどうにも性に合わなかったと見えて恥をかかぬ程度で留めてしまった。

 与えられたのは教養だけではなかった。武門の家ということで武術は幼いころから仕込まれた。馬術弓術は精々人並みであったが、その長刀使いや太刀打ちは、白粉化粧にまだ幼さの残るその優し気な顔にも拘わらず鋭いものであった。


 その他、好んで習い覚えたのは竜笛という種類の横笛であった。

 あまりにその笛を好むのを聞いて、ある夜、鈴虫の宴の座興に寄せて清盛は敦盛に言った。

「敦盛、最近は笛を好むとか。座興に一曲所望じゃ。上手く吹ければ、そうだな、満座がうなるほどの上達なら、わが父忠盛が鳥羽院様から拝領の、この青葉の笛を遣わそう、どうだ」

 好むも好まぬもない、敦盛は愛用の笛を出し、題を求めた。清盛は一言、人の世とのみ答えた。


 そしてさして長いとも短いともつかない敦盛の曲が終わった。満座、既に盃を口に運ぶ者は一人もいなかった。御耳汚しを、という敦盛の声に虫の声だけがしばらく答え、そして清盛は言った。

「玄妙、泣かんと思えば泣くが如く、喜ばんと思えば喜ぶが如く、怒らんと思えば怒るが如く、楽しまんと思えば楽しんでいるが如く、さながら人そこにあるに似たり」

 そして一つの漆蒔絵の箱を取り出し朱の紐を手ずからほどくと錦の袋に包まれた一本の竜笛が出てきた。

「敦盛。この青葉の笛はそなたのもの。別名小松の笛ともいう。先も言ったが鳥羽院様からの拝領の品。粗略に扱うことは罷りならぬ」


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 だがしかし、驕る平家も久しからず、その栄華に永遠などありえなかった。栄華を極め敵対するものなどない者などあり得ぬような風でありながら、しかし時代の風は確実に平家に対して吹き始めていた。



 鹿ケ谷の密議と呼ばれる事件が起こり、後白河法皇の側近らが比叡山の僧兵を動かして平氏討伐を企むという事件が起こった。強訴の阻止という今までの手法ではない。比叡山に攻め上らせる綸旨を出す、従わなければ朝敵として命令違反により、そして従えば比叡山を攻めたという仏罰により平氏を滅ぼそうという陰謀であった。

 この陰謀はしかし、漏れた。そして多数の後白河法皇の側近らが処罰され、その近親者が連座して終息した。

 後にこの事件に関連し、清盛は悪手と知りながら後白河法皇を軟禁せざるを得なくなった。


  祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり



 皇族に以仁王(もちひとおう)という皇子がいらっしゃった。やはり平氏の現状を面白く思わぬものの一人であり、才気あふれ経済基盤も持つ人物であった。腹心の源頼政と共に平治の乱で残った源氏勢力をかき集めての挙兵を画策した。そのために源行家に令旨が渡され、多数の写しが日本全国に撒かれた。例えば源光信、源頼朝、源義経、多田行綱、一条忠頼、山本義経、武田信義、安田義定といったものたちであった。

 この陰謀もしかし、漏れた。そして兵もほとんど集まらぬうちに平等院鳳凰堂へと攻め込まれ、大部分が殺された。その中には源頼政の元にいた木曽義仲の兄も含まれていた。わずかに北陸宮が北陸に逃げ延びることが出来た。


  沙羅雙樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす



 以仁王の跳梁跋扈は防ぎ得た清盛であったが、流石に多数書かれた令旨まで防ぎきることは出来なかった。日本全国に反乱の火の手が上がっており、清盛はその対応に追われていた。だが治承5年2月27日に熱病に倒れた。薬石祈祷効果なく、閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死亡した。時に治承5年閏2月4日(1181年3月20日)の事であった。

 跡は平宗盛が継いだ。


  驕れる人も久しからず 唯春の夜の夢の如し



 以仁王の令旨を源行家が送った一人に木曾の住人源義仲がいた。源義仲は兵を挙げ、北陸宮を保護し、倶利伽羅峠で平家の大軍を破り、遂に京へと迫った。この上は比叡山に助力をというも果たせず、遂に平宗盛は安徳天皇と三種の神器を携えて瀬戸内を船に乗り大宰府へ落ちていくことになった。いわゆる都落ちである。しかしあらかじめ後白河上皇側が手を回していたので安住の地とはならず、瀬戸内を屋島へと大幅に戻らざるを得なかった。

 一方の源義仲は朝日将軍の称号を得、京を支配した。朝日将軍による都落ちの後、平氏の本流は都へ帰ることは出来なかった。


  猛き者も(つい)には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ



 とはいえ頼朝を奉じた北条氏が再び平氏の栄華を取り戻すのには、さほどの時間もかからなかったのではあるが、それはまた別の話である。



 お気付きの方も多いかと思いますが、本編は平安末期が主な舞台となっております。しかしながら完全に史実に沿った構成にはなっておりません(たとえば大蔵の合戦は保元の乱よりも前に起こった事件です)。また終盤は大きく史実を無視した形になっております。

 様々なご指摘は甘んじて受けますが、「史実と違う」「本来の**と違う」というご指摘だけは、ご容赦いただければありがたく願います。


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