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青葉奉納  作者: 昨日の風
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平氏の勃興

 天正十年六月二日(1582年6月21日)。

 この日付だけで何があった日か、分かる読者も少なくはないだろう。


「人生五十年 化天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか」

 織田信長が本能寺でこう敦盛を舞い謡って炎の中にその姿を消したのは、まさにこの日のことであった。あえて明智光秀の謀反、とはいうまい。


 しかし、このいわゆる本能寺の変の400年前も、日本はやはり乱世であった。いや、この時代400年前の時代こそが本当の乱世であった。日本は公家の社会から武士の社会へと、そして武士の社会は自ずからその新たな頂点を求めて争わざるを得なかった。天に二日のない様に、ある程度の数の集団が集まれば、武力を用いるか否かに寄らず一つの頂を巡って常に争わざるを得ないためだ。


======


 本能寺の変から500年ほど前、西暦にして1050年ころに白河天皇という天皇陛下がいらっしゃった。後に位を譲り上皇とはなるが、この時代の他の天皇陛下と変わることもなく、その勢力基盤は決して強いものとは言えなかった。就中、都は比叡山に隣接しているという立地があり、無論他の有力寺社も含めて強訴が多発していた。比叡山へ武力威嚇は早くとも足利尊氏の時代、本格的な攻撃は六代将軍足利義の時代まで待たなければならない。いずれにせよ、既にその権力が兄弟であるとは言えぬ天皇陛下には比叡山をはじめとする寺社勢力への攻勢は不可能であった。

 しかしながら手をこまねいている白河天皇陛下ではなかった。あるとき天下の朝を二分していた藤原師実に諮られた。

「強訴が酷いな。それも年々、その度合いを増している。寄進を、というが際限もなく、僧にふさわしくない者も少なくない。……そこで天下より武士を集め、これを抑えさせよう」

「陛下。某の私心から申し上げるべきことではございませぬが、その儀は反対にございます。そのように集められた武士は、必ずや将来、朝廷に牙をむきましょう。どうぞお考え直しを」

 こう藤原師実に言われては、実力基盤の少ない帝の事である、強行する術はなかった。


 数年経ち、藤原師実が死んで若い忠実が継いだ。既に白河天皇陛下は天皇位を退き上皇となっていたが、永久の変を片付けたこともあり、勢力基盤を固めていた。そして、日本中から武士を集めた。

 「北面の武士」の誕生である。


 それから、また約100年が過ぎた。


=======


 戦の足音は確実に近づいてきていた。

 否、近付いていたのは戦の足音ではなかった。世の中が変わる、その変革への足音であった。破壊の序曲であった。


 最初の序曲、それが序曲として聞こえる形になったのは後鳥羽上皇と崇徳上皇の争い、いわゆる保元の乱であった。なぜ序曲として聞こえてきたのか? それまでもこういった上皇同士、あるいは上皇と摂関家、或いは畏れ多くも天皇陛下のご一族の争いはなかったとは言わない。小規模な政争などない方がむしろ珍しい。

 では何が、という前に既に保元の乱などなじみのない方も少なくはあるまい。それ故、保元の乱の経緯をかいつまんでおこうと思う。


 後鳥羽上皇と崇徳上皇の戦い、と書いたが、その原因自体は、実はよくある継承問題に過ぎない。その辺りの経緯は、興味のある方は調べても面白いかと思うが、内容とかけ離れるのでやめにする。

 保元の乱が特別なものとしてその名を残したのにはいくつか原因があるが、その一つはそれまでの、例えば大化の改新にせよその主力は結局は中心人物の私兵でしかなかったのに対し、保元の乱は、たとえほとんど名目だけでしかなかったにせよ北面の武士同士が戦うこととなったことである。いずれの陣営からも官命が下り戦をした、というのはやはり著しく朝廷という世界を土台から揺るがすものであった。

 もう一つ、重要な原因がある。それまでは確かに臣列に降ることとなった皇族の名乗るべき姓<かばね>であった源平両姓が、力ある武士として世の表舞台に、既に藤原氏を凌ぐ勢力として、それも一時的にではなく表れてきたことである。そしてこれ以降、最後の奥州藤原氏が滅んだ後、個人として、或いは学者として、歌人として、僧侶としてであれば別であるが、大きな政治勢力としては藤原氏の復権はなかった。

 完全に、朝廷という世界の、世俗に対する力は土台から崩れ始めたのである。


 そして世俗に対する力の崩壊に拍車をかけたのは、戦ではなかった。いつの時代も、例えば鎌倉幕府を倒した後の朝廷の建武の新政が鎌倉幕府から政務を取り戻した朝廷を倒す原動力になってしまったように、分け方が吝いと不満の種だ。かといって気前よく分けすぎれば抑えが効かぬ。戦後処理はいつの時代も自らを攻撃しうる諸刃の剣である。

 保元の乱の諸刃の剣は、保元新政と呼ばれる戦後処理であった。領土の分け方が問題なのではなかった。否、それも問題だったのかもしれない。だが致命的な、全く致命的な誤りは別のところにあった。

 それは崇徳上皇側の武将のみならず崇徳上皇その人までも、実に300年近く行われていなかった前例を持ち出してまで、その命を絶った、という点である。

 余談ではあるが、崇徳上皇は五部大乗経を写経するなど恭順の意を示したが逆に疑われ、三大怨霊とされたのは皮肉としか言いようがない。


 大蔵の合戦もこの時期の事である。保元の乱で後鳥羽上皇側に付いた一方の大将源義朝の庶子源義平と崇徳上皇側についた源義賢の争いは、奇襲による一方的な戦いによって源義平が勝利し、源義平は「鎌倉悪源太」の名をほしいままにした。この源義賢の子は信濃へ逃れたが、領国は源義平方のものとされた。


 大小様々なこのような事例が、日本中いたるところで生じていた。そしてその裁定は常に後鳥羽上皇及び後白河上皇側、さらに言えばその側近の信西により近い側に有利に下されていた。不満が出ないはずはなかった。だがそれが表に出ないのは、偏に最大の北面の武士であり保元の乱の最大の功労者、平清盛とその一族の働きによるものであった。彼らが或いは検非違使として、或いは北面の武士として、不満が噴出しないよう重しになっていた。


 その彼らが都からいなくなった。熊野詣へ参篭する、というのだ。

 後世、この熊野詣には諸説あり、反体制派をあぶりだすためのものというものや、甚だしきは信西を陥れて天下を一手に握る為のものというものさえある。が、実のところ平清盛の油断であった。といってただ油断していたわけではない。大江家仲、平康忠ら北面の武士はそのまま都に留め置かれ熊野詣へ参詣したのは平清盛の一族のみであり、防備自体がさして緩んでいたわけではなかった。

 だがこれを好機として、反信西連合は蜂起した。世にいう平治の乱の始まりである。


 平治の乱を詳細に眺めるのも面白いが、だがそれも本論から離れるので簡単に結末だけ書こう。源義朝、義朝の息子である源義平、源朝長、源頼朝、叔父である源義隆、信濃源氏の平賀義信などの一族、鎌田政清、後藤実基、佐々木秀義などの郎等、義朝の勢力基盤である関東からは、三浦義澄、上総広常、山内首藤氏などが参戦し、その他源重成、源光基、源季実、源光保らの混成軍であり、要するに私兵の寄せ集めであり、保元の乱では崇徳上皇の出陣を仰いでの堂々の陣であったのとは対照的であった。

 結果だけ言えば、この平治の乱の狙いはただ一人、信西の首だけであり、その意味ではこの乱は成功裏に終わったが、しかし平氏との戦いが終わると源氏の有力武士は多数討死し、或いは捕らえられて配流された。平氏の優位は動かぬものとなった。


 そして平清盛は後白河上皇の唯一の腹心として位人身を極め、太政大臣となった。領国も一門だけで西国を中心に7か国、この他郎党にも領国を分け与えた。また大宰大弐を兼ねることで公式に日宋貿易を独占し宋銭の供給の独占を独占して莫大な富を挙げた。

「平家にあらずんば人にあらず」

 一族の平時忠が言ったように、平氏の栄華は頂点を極めていた。



 お気付きの方も多いかと思いますが、本編は平安末期が主な舞台となっております。しかしながら完全に史実に沿った構成にはなっておりません(たとえば大蔵の合戦は保元の乱よりも前に起こった事件です)。また終盤は大きく史実を無視した形になっております。

 様々なご指摘は甘んじて受けますが、「史実と違う」というご指摘だけは、ご容赦いただければありがたく願います。


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