外化された「私」、抵抗する「私」
ヘーゲルとマルクスのどちらが好きかと考えてみると、マルクスの方が好きという事になる。ヘーゲルは偉そうだというのもあるが、マルクスにはヘーゲルにはない「自然」がある。自然に足をつけた時ののびのびしたところが、マルクスの疎外論にはある。ヘーゲルはプラトン式に、上に昇っていき、帰ってこない。マルクスはヘーゲルよりもアジア的と言ってもよいかもしれず、そういう意味では東洋人の僕には感覚的に了解しやすい。
マルクスはその疎外論で、こんな風に言っている。「自然とは人間の非有機的肉体である。が、人間もまた自然の一部にすぎない」 これは僕の要約だが、こんな事を言っている。
自然が人間にとって非有機的肉体だというのは、人間は自然に働きかけるという事を意味する。自然に働きかけて、それを自分(達)に都合の良いものに作り変える事によって、人間世界を豊かにする。しかし、人間世界を豊かにする為に、個としての人間(労働者)が貧しくなるという事はありうるのであって、今で言えば、過労で死ぬ人間などが考えられる。彼は自分をすり減らし、世界を豊かにする。例えば、毎日コンビニの運営を行わねばならず、働き詰めの店長を考えると、彼は心身をすり減らして、コンビニという店舗を維持している。コンビニは我々の役に立つが、その為に、彼は疲弊し、耐えきれずにとうとう死ぬ。
もちろん、労働は悪い事ばかりではない。良い面に関して言えば、ヘーゲルが言及し、悪い面についてはマルクスが言及しているので、セットで読むと丁度良いと思う。
疎外論という事で考えていくと、色々、思いつく。マルクスは外部の自然に人間が働きかける事を考えていたが、それは肉体労働が主の、産業社会だからであって、現在であればもっと多方面に応用できるだろう。
現在、思いつくのは例えば、タレント業などだ。タレント業というのは、自分自身を疎外する運動と言える。自分自身をカメラの内部に収め、その範囲内で振る舞うわけだが、そうなると、自分の意志で行動しているというよりは、カメラの奥の多数者の視線に答える為に振る舞うという風になっていく。どこからが自分でどこからが自分でないのか。次第に、その区別がつかなくなってくるのではないかと思う。
タレントは自分自身をある状態に改変し、大衆に見せる事によって、利得を得る。それによって次第に、自分というものがわからなくなる。自分は改変された自然としてあるわけだが、元の自然ーー元の自分が次第にわからなくなる。
タレントというのは、いずれにしろ、自らを外化し、自らの内部の自然を、自分自身で人工化していく存在だが、これはマルクスの労働が人間の内部に入り込んだという事を意味していると言える。僕はそんな風に考えている。
人間自身、人間の内部を外化する作用ーーつまり、タレント的な行動というのは、今や一般の人間にまで広がっている。インスタグラムやツイッター、フェイスブックで自分を演出する行為はそれに当たる。ただの「私」に我慢できないから、「私」を外化し、世界に向けて売り出す。
人間が外化し、他者の目線に晒されて、人工物となると、この人工物はそもそも私なのか、という問題が起こってくる。大した考えもなく、自分を演出していく人間はやがて、演出された自己像に復讐される事となる。演出された自己像は、ただの演出であり、冗談だと言っても、もう遅い。吉田兼好は「狂人の真似をして都大路を走る人間は狂人だ」と言ったらしいが、それは今にも当てはまる。冗談のつもりで人を殴って、殴られた相手が死ねば、それはもう冗談ではない。(余談だが、そういう意味で、僕はドッキリが嫌いだ)
テクノロジーによって、人間の内部は外化した。言い換えれば、人間の内部はネットを通じて流出し、その為に、人間の内部は第二の自然となった。それまで、社会に対して閉じた系であったものが開かれた。開かれた事によって、それはもう自分でコントロールできないものになりつつある。自分を世界に向かって開示すると、開示された自己像が、自己を上回って行動していく。そうなると、自分よりも他者の自己像が独り歩きしていく事になる。
例えば「性」などもその一つに思える。彼氏がいる、いない、といった事が、自分にとっての幸不幸というよりも、社会的、一般的な価値基準に照らされての幸不幸にすり替わった。性的関係はもともと、社会に完全に従属するものではなかったはずだが、今や、たった二人で個室で向き合っても、第三者の視線が二人の内面を通じて、そこに射し込んでいる。
最近読んだ小説では、主人公が昔の女の事を終始「ブス」と呼んでおり、作中の描写からすると、「ブスだけど愛しいブス」という扱いのようだが、結局の所、ブスか美人かは自分自身の視線で決定されるという意識が欠如していた。客観的には「ブス」でも惚れれば美人に見えるという事は当然あるだろうが、そうした認識がない。かつてのロマン派詩人が、やたら女性の美を褒めているのを見て、不思議に思った事があったが、あれは詩人の目に映し出された女性が美しいのであって、実際に美しいかどうかは大した問題ではないという事にある時、気がついた。青山七恵の小説では、作品のラストに「これから既婚者に会いに行く」という文があったが、既婚者か未婚者か、ブスか美人かという風に、相手を自分の認識によって決定できず、絶えず、自分の外側の価値基準によってしか他人を計れない主観の脆弱さを感じるにとどまった。
現代では「私」というのは、外化され、第二の自然となった。マルクスの言う、自然の人間化としての労働は、人間内部にも及び、人間内部を外化する事が現在の労働(疎外化)に成り代わっている。どこからが自分で、どこからが自分でないのか。自分の欲望か他者の欲望か。そういう事がわからなくなっている。
現在では単に生きる、という事が許されない。中上健次が描くような、自然ー労働者ー人間という姿はもう過去のものとなった。もしそんな人が今いるとすれば、彼の意識にはかつてなかったものが入り込む事になるだろう。つまり、「自分はエコロジストである」とか「あえて田舎で暮らしている良いライフスタイル」であるとか。そうしたものは、そういう風に考える事によって、自然さが失われてしまう。「枯木灘」に出てくる登場人物が自己の行動を意味づけ始めていくと、その世界は消え去ってしまう。「大衆」が消え去ってきている今、中上健次の「自然」もまた消失してしまっている。
現代というのは外化した「私」が塊となっていて、自分というものに思いを巡らした時、必然的に、迷いの中に入るようにできている。自分とは何か?という問いは、そのまま、「『自分とは何か?』と哲学的に考えている自分」に変換され、社会の中では「哲学的な人」に位置づけられる。あるいは「哲学にかぶれている人」になってしまうだろう。
テクノロジーの進歩によって、自己の内部はインターネットを通じて絶えず、外部化される事が可能となった。それによって、外部化された「私」が、大きく評価される事が非常な夢となったが、その場合、大抵は外部化された私がそのまま私であるという単純な考えに疑いを抱かない。
神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲が、僕の耳に響いてきたのは、このような状況下においてだった。自分というものを、外化された巨大な声への純然たる抵抗と化した歌がそこにはあった。自己を人々に馴致させる為に、自分を外化し、巧みに自分を装飾するのではなく、むしろ、それら全てに反抗する声としての自己ーーそういう思想は僕は神聖かまってちゃんに見出したのだった。
おそらく、現代における問題とは外化された「私」、「私」の集積としての社会幻想からもう一度、自分を作り上げる事にあるのだろう。ベルグソンの時間は、空間化され、論理化された時間に抵抗するものとして現れている。私とは、語り得ないものであるが、それを語らねばならないという必然的な命題がそこにあったと、僕は考える。ネットでも現実でも、嬉しげに自分を振りまく人々の中に「私」はない。「私」とは、世界から孤立したある存在であって、孤立しなければ存在しない態のものだが、それを痛感した人間が語らなければその存在は単にその人自身のものとして終わってしまう…という事に「私」の宿命はあるように思う。そういう意味では、外化された「私」の世界においても、孤立した私を追い求め、なおかつ、そこから世界に向かって開けていく道が、現在、何よりも必要である……そんな風に思っている。




