743 ▽蘇る怨念
黒く塗り潰された光を反射しない刃。
迫る凶刃を認識した瞬間、ジルは考えるより先に動いた。
「はっ!」
自ら敵に向かってバックステップで踏み込み、まずはナイフを蹴り飛ばす。
「え……ぐぶっ!?」
そのままさらに相手の懐に潜り込むと、拳で相手の顎を打ち上げた。
のけ反ったフードの男の喉を叩こうとして直前で思い留まる。
スパイだって言ってたな。
なら、声を奪うのは良くない。
代わりに腹に足刀蹴りを叩き込む。
体が前に折れたところで相手の利き腕を取る。
そのまま背後に回って腕を極め、地面に組み伏せ、背筋を膝で押さえつける。
「がはっ!」
「動くと折るぞ」
関節を極めた腕に体重をかけ、相手に激痛を与えることで一時拘束する。
「さすがジルだ」
「ジルジルはすごいのだ!」
「すげえ、何者だよあのお嬢ちゃん」
そんなジルに拍手を送る友人ふたり。
男を追っていた二人組も驚きに目を見開いている。
セラァはジルが離したターニャの車椅子を支えてくれていた。
「兄貴、ぼーっとしてないでこいつを拘束するの手伝ってよ」
「あ、ああ。面目ない」
「まだ武器を持ってるかもしれないから気を付けて」
敵に出し抜かれた形になったフォルツァは、気まずそうにジルの隣で膝をついた。
「怪我はないか」
「大丈夫」
フードの男はジルが若い女だと思って完全に油断していたようだ。
兄の攻撃を避けたほどだから、かなりの達人なのは間違いない。
ジルが先制で無力化できたのは幸運が重なったからだ。
フォルツァは携帯用手錠を取り出してフードの男の両腕を固定した。
※
近くに落ちていた荒縄で両足を縛り、地面に転がして簡単な尋問を開始する。
「さて聞かせてもらおうか。お前が敵国のスパイというのは本当か?」
「違う。急に追いかけられたから驚いて逃げただけだ」
フードの男はフォルツァの質問に対して否定の言葉を述べる。
彼を追っていた男は指をさして大声で叫んだ。
「ふざけんな! 俺は見たんだぜ、こいつが水晶玉を使って外の仲間と連絡を取るのをな!」
「彼はああ言っているが」
「さあな。見間違いじゃないのか?」
フォルツァたちはその現場を見たわけではない。
だからこの男が本当に敵国のスパイかどうかは判別できない。
しかし、確実なことがひとつある。
「だが、お前はジルを刃物で狙ったな」
「……」
「傷害未遂の現行犯だ。このまま衛兵のところに引き渡す」
「ちっ」
関係ない人間を問答無用で斬りつけようとする危険人物を野放しにはできない。
現在の混乱の中で衛兵がまともに機能しているとも思えないが……
「兄貴っ!」
フォルツァが通りの方に目を向けた一瞬のことだった。
フードの男は袖口に仕込んだもう一本のナイフを使って両足のロープを切断する。
「無駄な抵抗を……!」
だが、まだ両手に手錠は填められたままだ。
もう一度打ちのめして今度は足の骨でも折ってやろうか。
「バカめ、遅いわ!」
フードの男はズボンの裾ポケットから何かを取り出した。
先端に針がついた透明な小さな筒だ。
中は液体で満たされている。
「毒か!」
とっさにそう判断して距離を取る。
ジルもまたターニャを背中に隠すように動いた。
しかし、敵はその注射針をこちらに向けることはなかった。
両手で注射器を逆手に持ち、自らに腹に突き立て、
「追い詰められてはやむを得ない。見せてやろう、邪霊戦士の力――ぼげっ!」
ようとした直後、顔面に拳大の石の直撃を受けた。
「あがっ……」
男の手から注射器がこぼれて地面に転がる。
フォルツァとジルが判断を誤った後、投石で相手の行動を阻止したのはセラァだった。
「ドーピングでもするつもりだったのかな? とりあえず妨害しておいたよ」
「な、ナイス」
※
「少し痛いが覚悟してもらうぞ」
「あぎゃあ!」
フォルツァはフードの男を再度拘束すると躊躇なく両腕を折った。
尋問に支障が出るかもしれないが、また抵抗をされるよりはマシだ。
「ぐああああああ……!」
「しかし何者なんだ、こいつは?」
「敵国のスパイなのは間違いないだろう。今日は非番だが、俺は衛兵だ。市民お二人の協力に感謝する。後のことは任せて君たちは避難を続けてくれ」
「ちょっと待ってくれよ衛兵さん。先にそいつが敵国のスパイだって気づいたのは俺らだぜ?」
「そうだそうだ。謝礼金を寄越すか、もしくは俺たちに尋問をさせてくれよ」
「それはできない。今は非常事態のため謝礼は出せないが、連絡先を教えてくれれば後日改めて……」
フォルツァとスパイを追っていた二人が言い合いを始める。
すると、車椅子に乗ったターニャが奇妙な反応を見せた。
「あー、あー」
「ターニャ、どうしたんだ!?」
彼女は身を乗り出して、しわがれた唸り声をあげる。
これまでに一度も見せたことのない反応である。
こんな風になってから初めて、彼女が何かに興味を示している。
ジルはターニャの視線を追った。
その先にあったのはフードの男が落とした注射器だ。
「これが気になるのか?」
ジルは注射器を拾い上げてターニャの傍に戻った。
太陽の光を反射して光っていたのが気になったのだろうか?
「あー、あー」
「ダメだよ。これは危ないから」
枯れ木のような腕を必死になって伸ばすターニャ。
注射器には鋭い針がついているし、得体のしれない液体も入っている。
せっかくターニャが反応をぢたのに心苦しいことではあるが、ジルはその注射器を捨てようとした。
ところが。
「があっ!」
車椅子から勢いよく立ち上がったターニャ。
彼女はジルの手からひったくるように注射器を奪っててしまう。
「何を!?」
急に彼女が激しい動きを見せたことも驚いたが、それ以上に信じられなかったのは、ターニャが奪った注射器を迷うことなく自分の腕に刺したことだった。
「あー、あー、ああ……あははははははっ!」
響き渡る哄笑。
老婆のようだったターニャ声が、体が、みるみるうちに若返っていく。
頬に赤みが差し、ガラス玉のようだった瞳に輝きが灯り、しわだらけの顔に瑞々しさが戻る。
ターニャが元に戻っていく。
「な、な……」
「あはははは! 生き返っるみたいいい!」
ただし、優しかった頃の友人にではない。
かつてフィリア市を混乱に陥れた、ケイオスの眷属の姿に。
※
「な、なんで……」
ジルは目の前の出来事が信じられなかった。
ターニャが元気になってくれたのは素直にうれしい。
けれど、それはジルが思い描いていたような形ではなかった。
「ふうん。ねえ、そこのあなた」
ターニャはジルを一瞥した後、フォルツァの傍で倒れているフードの男を見下ろした。
「邪霊戦士ではない……? なんだ、その変化は……」
「いいから話を聞きなさあい。あなた、この薬の予備はたくさんもってるのお?」
「……本国へ帰れば補充は可能だ」
「そ。じゃあ助けてあげるから、その本国とやらに連れて行ってちょうだい」
傍らに立つフォルツァのことなど無視してターニャはフードの男の手を取った。
「水霊治癒」
彼女が短く輝言を唱えると、折れていた手があっという間に回復する。
「貴女は輝術師か」
「ええ。くわしい話は知らないけど、ファーゼブル王国と敵対してるんでしょう? よかったら手伝ってあげてもいいわよお」
「願ってもない。こちらこそよろしく頼む」
「ふふ……」
「おい待てよ! いきなり現れてなんなんだ、あんたは――」
「よせ、やめろ!」
ジルが叫んだ時には遅かった。
ターニャの肩をスパイを追っていた男の片割れが掴む。
「閃熱断蹴」
次の瞬間、彼は胴体を大きくえぐられて真っ二つになった。
ターニャは超高温で白熱した足をふわりと着地させる。
その場の誰も動けなかった。
「さあ、行きましょう」
フードの男の襟首を掴み、ターニャは飛び上がる。
「ぐぶっ。も、もっと優しく運んで……」
「あらあらあ、何かしらあの大怪獣はあ。これは早く避難した方がよさそうねえ」
「待ってくれターニャ! 行くなっ!」
いち早く正気を取り戻したジルがターニャの真下へ駆け寄って叫ぶ。
ターニャは冷たい目でジルを見下ろしながら言った。
「ジルう。本音を言えば今すぐにでも殺してあげたい所だけどお、私が弱ってる間に介護してくれたお礼ってことで、この場は見逃してあげるう」
「ターニャ……っ」
「でも、私はあなたを許さない。フォルテ君を奪ったこの国を許さない。必ず滅ぼしてやるわ。何を頼って、どんな手を使ってもね」
彼女の心の闇は消えていなかった。
それどころか、より強い怨念を持って蘇った。
「じゃ、さよなら」
「ターニャぁ!」
邪悪を取り戻した親友は、敵国のスパイを従えて、土煙の向こうへと消えていった。




