661 彼女の罪
喉が異様に渇く。
目の奥がちかちかする。
だらりと下げた足が震える。
右腕がズキリと強い痛みを訴えた。
「るうてさん」
びくっ!
特徴的な発音で私の名前を呼ぶ声。
心臓が鷲づかみにされたような気持ちになる。
「降りてきて頂けませんか? お話したいことがあります」
その声色はとても穏やかだった。
敵意のひとかけらも感じない。
なのに、私は彼女が、怖い。
長い黒髪。
東国風の前あわせの服。
月光を反射してきらりと光る片刃の剣。
かつて私たちの旅の仲間だった東国の少年のお姉さん、ナコさん。
死んだと思っていた人が目の前に現れて私はひどく動揺していた。
「な、なんで……」
生きてるの?
と、問いかけようとするけど言葉が出ない。
失礼なことを言って怒らせたら、即座に首を刎ねられそうな気さえする。
いや、冷静に考えてみよう。
ナコさんの武器はあのカタナ一本だけ。
空に浮かんでさえいれば絶対に斬られることはない。
遠くの敵を攻撃する不思議な光る突き技にだけ気をつけておけば大丈夫。
そもそも今の私なら、別に斬られても死んだりしないし。
むしろ先制攻撃でやっつけちゃえば……
「あの」
「ひいっ! ごめんなさい!」
「……やはり話を聞いては頂けないのでしょうか」
思わず謝ってしまう私。
なんかもうほとんどトラウマみたいだよ。
ナコさんはそんな私を寂しそうな表情で見上げていた。
「以前に私がしたことを思えば、当然のことかも知れません。ですが……」
「ルーちゃん!」
ナコさんの言葉に被せるように、力強い声が夜空に響いた。
ヴォルさんが来てくれた!
「大丈夫、エヴィルは!?」
「あ、えっと、その……」
彼女は眼下の草原をざっと眺め、やはり無数に転がるエヴィルストーンと、そこにひとり佇む東国の女性の存在に気づく。
「どういうこと? ルーちゃんがエヴィルを全滅させたの?」
「ううん。たぶんあの人が」
ヴォルさんはナコさんを見下ろし睨み付ける。
「知ってるやつなのね?」
「いちおう……」
「敵なの?」
「わかんない」
「なら話をしてみましょう」
「あ、待って!」
降りていこうとするヴォルさんの服を掴んで止める。
「大丈夫よ。アタシが護ってあげるから」
彼女は私が震えていることに気づいたみたい。
何があったのかは聞かず、優しく微笑んで頭を撫でてくれた。
「行くわよ」
「……うん」
私はヴォルさんと一緒に草原に降り立った。
彼女の背に隠れながらナコさんの方を見る。
「気をつけて。あの人は『斬輝』っていう技を使うから」
「斬輝……なるほどね」
熱っ。
ヴォルさんの体から輝力が溢れ出た。
相手の態度次第では即座に戦闘モードに入るつもりみたい。
「最初に聞いておくわ。アンタはアタシたちと敵対する意思はあるの?」
「いいえ」
「じゃあなんで、この子がこんなに怯えてるのかしら」
「私が以前に彼女を深く傷つけてしまったからでしょう」
ナコさんはカタナを鞘に納め、地面に置いて一〇歩ほど横に移動した。
敵意がないことを示すためにわざと武器を手放した……?
「あなた方と争う意思はありません。これはその証明です」
「まだよ、次の質問……アンタ、ヴェーヌを殺した女?」
あっ、そうだ。
ナコさんは星帝十三輝士をひとり殺害している。
ほんの少しだけど私たちとも会話をした、四番星のヴェーヌさんを。
その人が実際に殺されたところを私たちは見ていない。
けど、それを知らせてくれた彼の部下は、私たちの前でナコさんに殺されている。
ヴォルさんにとってナコさんは同僚を殺した仇だ。
「名前までは覚えていません。ですが、恐らくその方を斬ったのは私なのでしょう」
「へえ……」
ヴォルさんの全身から炎のような輝力が立ち上る。
彼女の声は明らかに怒りを帯びていた。
「一年前。このグラース地方で三〇〇人近くの民を惨殺した、ミドワルト史上最悪の大量殺人鬼……それはアンタで間違いないのかしら」
「はい」
ナコさんは迷いなく頷く。
それと同時にヴォルさんは地面を蹴った。
瞬きをする間に数メートルの距離を詰め、ナコさんの首に手をかける。
「通りすがりの冒険者に倒されて死んだって聞いてたけど、まさか生きてのこのこ現れるとはね。当然、殺される覚悟はできてるのかしら?」
今は除名されているとはいえ、ヴォルさんは星帝十三輝士一番星。
仲間を含めて多くの人を殺したナコさんを放っておくわけがない。
斬輝という特殊な技を使うけれど、ナコさんはあくまで普通の人間だ。
対してヴォルさんは並の輝攻戦士の五倍の力を持っている。
首に掛けた手にちょっと力を込めれば彼女は死ぬ。
けれどナコさんは少しも恐れることなく、平坦な声でこう言い返した。
「処罰を受けるのは当然のことと思います。私はそれだけの罪を犯したのですから」
「わかったわ、それじゃあ……」
ヴォルさんの右手に輝力が集まる。
それを見た瞬間、私は思わず叫んでいた。
「待って、ヴォルさん!」
彼女の動きが止まる。
首から手は離さない。
「なに、ルーちゃん?」
「えっと、その……」
自分でもなんで止めようとしたのか、よくわからない。
ナコさんは確かにとんでもない凶悪犯だ。
けど……
「な、ナコさんは、ここで何をやっていたんですか?」
今の彼女にはどこか違和感がある。
自分から武器を捨てたこともそうだけど……
以前の彼女なら、殺されそうになったら強く抵抗したんじゃないかって。
ナコさんは私の質問に答えない。
だから代わりに、具体的に聞いてみる。
「エヴィルをやっつけてくれたの?」
「……ええ」
急に消えたエヴィルの気配。
辺り一面に散らばる無数のエヴィルストーン。
状況を考えれば、彼女がやっつけたとしか考えられない。
でも、それはなんのために?
エヴィルの群れの進路上に、彼女が偶然いただけって可能性もある。
けど、もしそうじゃないなら……
「村を救ってくれたんですか?」
「……」
また彼女は黙ってしまう。
否定したいと言うよりは、正直に頷けない感じだ。
「じゃあ、これだけは答えてください。ナコさんはまだ……人間を斬りたいと思ってますか?」
「………………いいえ」
長い沈黙の後、彼女は絞り出すような声で呟いた。
やっぱり、彼女の病気は、もう治って――
「ルーちゃん」
「は、はい」
ヴォルさんが低い声で私を呼ぶ。
「たまたまコイツがエヴィルを倒して村が救われたとするわ。けど、こいつは何百人もの人間を殺した大量殺人鬼なのよ。たった一度の善行くらいですべてをチャラにするなんてできないわ」
「で、でも、ナコさんはもう人を斬らないって……武器も捨てたし」
「今は敵対しないとしても、コイツがまた人を殺さない保証はある?」
う……
それは、さすがに「ある」とは言えない。
「ルーチェ! ヴォルモーント!」
そのタイミングで空飛ぶ絨毯に乗ったお姉ちゃんがやってきた。
お姉ちゃんの乗った絨毯はゆっくりと下降して私のすぐ傍に着陸する。
「一体どうしたんだ? エヴィルの群れはどうなった。そこの女は誰だ」
「えっと、話すと長くなるんだけど」
「……ふん」
ヴォルさんがナコさんの首から手を離す。
「げほっ、げほっ」
ナコさんはその場でうずくまって激しく咳き込んた。
ヴォルさんは少し離れた場所に捨てられていたカタナを拾う。
スラリと刀身を引き抜くと、その刃先をナコさんの首筋に突き付けた。
「とりあえず、言いたいことがあるなら話くらいは聞いてあげるわ」




