559 ▽深淵の森を越えて
「なあ、どうだ。行ってみてくれる気になったか?」
「構わん。だが……」
気分の高揚を悟られないよう、グレイロードは落ち着いた声で言い返す。
「こういうのはお前が一番望むことじゃないのか?」
「できれば自分で行きたい所なんだけどよ。俺は見ての通りこのザマだし、何より対魔王のためのメインプロジェクトを進めなくちゃならないからな」
「『プランA』か……」
「こいつは俺にしかできないことだからな」
それもまた、勇者捜しに勝るとも劣らないほど、非現実的な計画である。
だが、そちらに関してグレイロードが関知できることはない。
アルジェンティオにとっては本命のようだが……
「わかった」
とりあえず話は終わりだ。
聞きたい情報はこれですべて聞けた。
特に封印結界の件は有益な情報だった言えるだろう。
あとは帰って、今後の予定を煮詰めるだけ。
アルジェンティオのためではない。
ミドワルトのために。
「地図はもらっていくぞ」
「好きにしな。ただ、あんまり世間の目に触れさせるなよ?」
「言われるまでもない」
ミドワルト外の世界に関しては、今のところ大っぴらに発表しない方がいいだろう。
我先にと領土を拡げようなどと考える国も出てこないとは限らない。
特に心配なのは、シュタール帝国とマール海洋王国だ。
大賢者は地図を畳んで席を立ち、別れの挨拶もせずに小屋から出ようとした。
すると、ノブに手をかける前にドアが外側から勝手に開いた。
「あっ」
ドアの向こうに子どもが立っていた。
四、五歳くらいだろうか。
くせのあるブロンドの利発そうな少女である。
胸にはフード付きの子供服を着た、小さな赤子を抱きかかえていた。
「あの、らいきゃく中とはしらずに、しつれいをいたしました!」
少女は丁寧にお辞儀をする。
その拍子に抱いていた子を落としそうになる。
「わわっ!」
少女は慌てて赤子を抱え直す。
「大丈夫だよベラちゃん。お話はもう終わったからね」
そう言うアルジェンティオの声は、別人のように優しかった。
さっきまでの復讐に狂った男と同一人物とは思えない。
「この子は?」
「ベレッツァです! 王女さまのおせわやくをおおせつかっています!」
グレイロードが尋ねると、少女は自ら背筋を伸ばして自己紹介をした。
「ブランドの娘だ。ルーチェの面倒を見てもらっている」
「ルーチェ?」
「そいつの名だよ。南部古代語じゃないと不便だろう」
フードを被っていたのでわからなかったが、ベレッツァが抱きかかえる子の髪色は、透き通るようなピーチブロンドである。
あの時に託されたプリマヴェーラの子だ。
「そうか、俺はグレイロードだ。よろしくな」
「グレイロードさま……しんだいエインシャントの『だいけんじゃ』さまですか!?」
少女はぴしりと背筋を正した。
必死に背伸びしている仕草がとても可愛らしい。
先代天輝士の孫娘と言ったが、きっと良い両親に育てられたのだろう。
ベレッツァは腕の中の子を王女と言った。
アルジェンティオはこの子を自分の子として育てるつもりなのだ。
少女は恐らくこの子が魔王の娘であるという事情までは知らない。
単に王家の隠し子くらいの認識なのだろう。
まあ、細かいことはいい。
この少女に面倒を見てもらうなら大丈夫だ。
少なくとも、アルジェンティオに任せるよりはずっと安心だろう。
「姫様のお世話役、頑張ってな」
「はい! だいけんじゃさまも、おすこやかで!」
ベレッツァの頭を撫で、グレイロードは彼女の腕の中の子を見る。
ルーチェと名付けられた魔王と聖少女の子は、幸せそうな寝息を立てていた。
※
それから半年後。
輝士団と輝術師団の教育システムを完璧に構築し終え、それぞれに信頼できる人間を副団長に据えてから、ようやくグレイロードは東方調査隊を発足させる段階にこぎ着けた。
探索隊の隊長を務めるのはもちろんグレイロード本人。
付き従うのは厳選された一〇〇名の信頼できる部下たちだ。
そのうち四〇名は両団から集めた戦闘要員である。
本来の予定ではもっと少人数で行くつもりだったのだが……
気がつけば、神国の威信を賭けた一大プロジェクトになっていた。
「成果を期待しておるぞ、大賢者」
王宮の中庭で聖王陛下に激励の言葉を賜る。
グレイロードは恭しく頭を下げ、誓いの言葉を述べた。
戦に出陣する輝士団のように、国民に見送られ神都の大路を練り歩く。
城門の外に出て、この日のために用意させた空飛ぶ絨毯へ五人ずつ別れて乗り込む。
一行は歓声を上げる民衆達に手を振り返して、東の空へと飛び立った。
上空を通る国家には大国小国の区別なく事前の許可を取ってある。
シュタール帝国領だけは禁止区域を設けられたので、大きく迂回していかなければならない。
道中で四時間ごとに休憩を取る。
あらかじめ予約しておいた宿に分散して泊まる。
それを何度も繰り返し、三日目の正午には東の大森林が見えてきた。
空から見るとよりハッキリとわかる。
視界の先はどこまでも奥深い森が拡がっている。
緑の地平線には、地形による起伏すら見られないほどである。
よく考えれば不自然なことだ。
これほど広大な地域が、ずっと平坦だなんてあり得るだろうか?
森の中で生活する少数民族について再調査してみたが、ほとんどが戦乱の時代に生活圏を移し、そのまま居ついただけの人間である。
つまり『ミドワルトの人間』だ。
意図的に中央の文明から離れただけの変わり者にすぎない。
これまではそんな人達を、多少の揶揄を込めて『東国の民』と呼んでいただけである。
人生を賭けて踏破に挑んだ者も歴史の中にはいるだろう。
しかし、この向こうに存在するであろう何か……
真の東国の民との交流の記録はない。
「よし、この辺りでいいだろう」
グレイロードはある程度進んだところで、部隊に着陸指示を出した。
すでに森と平原の境は遙か後方。
これより奥へ無計画に進むのは危険な行為だ。
自分たちがどちらの方角を向いているのかもわからなくなる。
この辺りの木々は異様に背が高い。
密集しているので、地上に降りると昼間でも薄暗い。
着陸地点で数匹の凶暴化した獣に襲われたが、難なく撃退した。
「術式を開始する」
輝術師団員二○名がそれぞれ配置につく。
予め決めた定位置に移動し、地面に幾何学模様の線を引く
その後、聖水を撒いた上で触媒を手に、長い長い輝言を唱え始める。
結界解除の儀式である。
術式は本格的なもので、およそ数時間にも及んだ。
グレイロードはその中心に経ち、圧縮言語を使って、書籍数冊分にも及ぶ詠唱を続けた。
この術式に名前はない。
輝術ランクに当てはめるのなら、十一階層にも及ぶ大術式である。
たった一人で何の触媒を使わず行使するのなら、術の発動までに丸一年は掛かるだろう。
「――開け」
最後の言葉を唱える。
彼らの目の前の空間が割れた。
何もない空間が、いくつもの三角形の破片となって砕け散る。
キラキラと輝く光に縁取られた、人ひとりが屈まずに通れる程度の大きさの、半円状のアーチが完成した。
その向こうには何の変哲もない森林が続いている。
しかし、そこはもう確実に、こちら側とは異なる別世界だった。
その証拠に、アーチの反対側に居る人間の姿は、こちらからでは見えない。
さらに万全を期すため、固定の術を何重にもかける。
すべての術式を終えると、まずはグレイロードが光のアーチを潜った。
これがミドワルトの長い歴史上、初めて人類が東の大森林を越えた瞬間であった。
とは言え、別段の感慨は無い。
アーチの向こうもただの森で、風景が極端に変化するわけでもない。
銀の鳥に乗り込んでビシャスワルトへ行った時の方が、よほど衝撃は大きかった。
続いて部隊の全員が潜り終える。
すぐさまアーチに強力な認識阻害の術をかけた。
こちら側の人間が間違ってミドワルト側に迷い込まないためだ。
ちなみに、輝術と術式の違いに明確な区別はない。
大人数で行う、あるいは専門の道具や紋章を使う場合は術式と呼ばれることが多い。




