474 ▽雪原一人旅
どこまでも続く真っ白な景色。
空は晴れているが、気温はとても低い。
いくら着込んでも内側から体温を奪われる寒さである。
ここはシュタール帝国北方のとある小国。
雪原を一人の少年が歩いていた。
身に纏うのは薄手のレザージャケット。
北国を旅するには、やや軽装過ぎる服装である。
それよりも目を引くのは、ミドワルトの人間では決してあり得ない、真っ黒な髪だ。
少年の名は霧崎大五郎。
少し前まで共に旅をしていた仲間からはダイと呼ばれていた。
「はぁ、はぁ……」
足取りはふらついている。
携帯食料は半日前に食い尽くした。
腹を満たせそうな野生動物は見当たらない。
それどころか昨日から虫一匹、草一本見ていない。
方位磁針も持たず、ひたすら白銀の大地を往く黒髪の少年。
積もる雪に足を取られ、歩くこともままならない。
その姿はまるで幽鬼か自殺志願者のよう。
そして、ついに限界が訪れる。
「ぶっ」
雪中の岩塊に足を取られ、前のめりに倒れ込む。
「くそ、足が動かねえ……」
呟く声もどこか他人事のよう。
もはや立ち上がる気力もなかった。
冷たい。
体の半分が雪に埋もれているのだから当たり前だ。
このまま意識を失えば間違いなく死ぬだろう。
最後の力を振り絞って、仰向けになった。
その瞳に映ったのは、雲一つない青空。
どこまでも続く、広い広い澄んだ空。
空はミドワルトに点在する大小いくつもの国を超え、東の大森林の向こう、東国と呼ばれる彼の故郷にまで繋がっているだろう。
このまま死んだら、魂は遙か遠くのあの地に帰るのだろうか?
もしそうなら、きっとそこにはあの人もいる。
そう思えば悪くない気もした。
ただ一つの心残り。
それは、こんな形で旅を終えること。
……あいつらが知ったら、なんて言うだろう?
考え始めたら急に悔しくなった。
気がつけばダイは拳を握り締めていた。
想像の中で自分を哀れむ、かつての仲間たち。
脳裏に浮かんだその姿が彼の神経を強く逆なでする。
「っか、やろぉ……」
オレは一体なにを考えていたんだ。
こんな所で死ねるわけねー。
死んでたまるか。
腹の奥で煮えたぎる激情。
しかし、思いと裏腹にダイの体は立つことを拒絶した。
気持ちの問題で済ませられるほど、体力が残っていないようである。
ほどなく、強烈な眠気が襲ってきた。
まぶたが重い、力が抜けていく、体が沈む。
ちくしょう。
やるせない気持ちを心地よい眠気がかき消し、ダイの意識は闇に落ちていった。
※
次に目を覚ましたとき、ダイの体は温かい何かに包まれていた。
目に映るのは抜けるような青空ではなく、木の目模様の天井。
覆い被さる白いものは雪ではなく、柔らかな毛布だった。
「ここは……くっ」
起き上がろうとした瞬間、つま先に鋭い痛みが走った。
ここはどこだ?
どこかの部屋の中だ。
どうやらベッドの上にいるらしい。
雪原で気を失って、無事で済むわけがない。
誰かに運ばれたと考えるのが自然だろう。
周囲を見渡してみる。
ダイは荷物がないことに気がついた。
たいした物は持っていないが、剣の行方だけは気になる。
刀身が折れているとはいえ、大賢者から預かった、大切な武器なのだ。
とは言え、物取り目的ではないだろうと思われる。
それならダイは放置したまま、荷物だけ奪っていくはずだ。
考えられる可能性はいくつかある。
近くに住むお節介な善人が助けてくれたか……
所持品からダイを大国の貴人と勘違いし、恩を売ろうとしたか……
まあ、如何なる理由だとしても、あのまま放置されるよりはマシだろう。
考えてもわかることではない。
ダイはもう一度体を起こそうとした。
が、やはり強烈な痛みで、まともに動けない。
しばらくは大人しくじっとしているしかなさそうだ。
気を失った時点で、死んだも同然の身である。
こうなったらなるようになれだ。
覚悟を決めたら気が楽になった。
もう少し布団の心地よさを堪能させてもらおう。
こんな上質な寝床に入るのは、仲間たちと旅をしていた時以来である。
「仲間、か……」
ダイは天井を見上げて呟いた。
あいつらと別れてから、もう一ヶ月以上が経つ。
別に一人が寂しいとは感じないが、こうしてふと思い出すと、妙に懐かしい気分になる。
目を閉じると、ピンク髪のマヌケ面が浮かんでくる。
頭の中で調子外れな歌声が聞こえた気がした。
そういえば、あいつもよく歌っていたな。
「らるらー、らららん」
ダイは目を見開いた。
幻聴ではなく、実際に誰かが歌っている。
若い女の声だ。
ダイは声のする方に目を向けた。
「らら、らららら、らららら、らららら、らん」
扉を開けて部屋に入ってきたのは、やはり少女だった。
年齢はダイより少し下くらいだろうか?
手には一輪の花を持っている。
彼女はこちらを見ることなく、鼻歌を歌いながら、窓際の机に置いてあった花瓶に花を差した。
そして今度はダイの方を向き、なぜかやや視線を下に落として、
「早く目が覚めるといいねー」
と言うと、踵を返して部屋から出て行こうとする。
「……おい」
「はひゃっ!?」
完全に無視された形になったダイは思わず声を掛ける。
少女は大げさに驚きながら振り向いた。
「え、えっ。もしかして起きてたんですかっ?」
「見りゃわかんだろ」
「えっと、あの、ごめんなさいっ」
少女は大げさに頭を下げて謝罪した。
再び顔を上げた彼女の目を見て、ダイは違和感に気づく。
彼女の瞳は開いているが、こちらを見ておらず、視線は宙を泳いでいる。
「目が見えないのか?」
「はいっ。あ、でもご心配なく。ずっと前からだし、家の中なら不自由なく歩けますのでっ」
別にそんな話がしたいわけじゃない。
気になるのは、彼女が何者かということだ。
「アンタがオレを助けてくれたのか?」
「助けたというか、偶然通りかかっただけですけどねー。運んでくれたのは隊商のみなさんです。っていうか、びっくりしましたよー! 季節外れの山鹿が雪の中で倒れてるのかと思ってさわってみたら、男の子が大の字になって眠ってるんですもん! なんだってあんな所で寝てたんですか?」
「……ちょっとな。旅の途中で道に迷っ」
「北国を舐めちゃダメですよ! 食料も持ってなかったし、何よりあんな薄着とかあり得ません! もうちょっと見つけるのが遅かったら、両足が壊死してたかもしれないところだったって、お医者さんが言ってましたよ! でも、目が覚めて良かったですー」
「ところで、ここはどこなん」
「スリート村の私の家です。道に迷ったって言ってましたね? ここがノルド国だっていうのはご存じですか? あ、自己紹介が遅れましたね。私の名前はティニーって言います。もしよろしければ、あなたのお名前も聞かせてもらえませんか?」
頭が痛かった。
こっちが何かを言おうとするたび、もの凄い勢いで喋り始める。
どうやら悪意は持っていないようだが、あまり付き合いたくないタイプだった。
「霧崎大五郎だ。言いにくかったらダイでいい」
「ダイさんですね。それじゃ、私はみんなにダイさんが目を覚ましたって伝えてきます。丸二日眠りっぱなしだったからお腹空いたでしょう? 何か食べられるものを持ってきますね!」
ドタドタと騒がしい足取りで部屋から出て行くティニー。
しばらくすると、何かにぶつかる音と「いったーい!」という声が聞こえてきた。
目が見えなくても大丈夫と言っていたが、本当なのだろうか?
「ふう……」
呆れながらも、ダイは人心地ついた。
結局、また生き延びてしまった。
別に死にたいと思っているわけじゃない。
だが、以前のように意地でも生き延びてやるという、命への執着はなくなっていた。




