385 ▽残された者たち
どこまでも澄んだ青い空に、ひとつの影があった。
その影は翼を広げ、奇妙な軌道を描きながら飛んでいる。
まるで群れから離れた渡り鳥のように、孤独に空を往く黒い影。
だが、それを注意深く見れば、決して鳥などではないことに気付くだろう。
影には四肢があった。
真っ赤な毛は頭部からのみ生えている。
瞳は猛禽類の目で、眼下の街を見下ろしていた。
翼を除けば、その容貌はまぎれもない人間の女である。
ボロ布のような黒い衣装に身を包む女。
下降を続けていた彼女は赤い翼を水平に広げた。
一転して急上昇し、そのまま天を目指し、ある地点で停止する。
ここまでが結界の範囲。
外界への出入り阻む見えない壁。
それは彼女にとって監獄の檻だった。
自由を妨げる障壁。
女は憎しみを込めた眼で宙を睨む。
ただし、怒りを表情に現したのは一瞬だった。
彼女はすぐ無表情に戻り、上昇した時とは反対にゆっくり高度を下げていく。
現在の状況を鑑みれば、このような空の舞は危険と言わざるを得ない。
だが、たまにはこんなふうに空中遊泳を楽しまなければ、息が詰まってしまうのだ。
名誉ある役目を与えられた身。
とはいえ、天敵に混じっての生活はストレスとの戦いだ。
どちらにせよ、地上に住まう者が、彼女に気付くことはないだろう。
翼持つ異界の人魔――
ケイオスは、重力に牽かれてゆっくりと降下していった。
彼女が正体を隠して暮らしている、輝工都市へと戻っていくために。
※
瞳を閉じると、空を飛ぶことができる。
上下、左右の区別がなくなる。
意識を向けると、ただ前へ前へと進んでいく。
どこまでも、どこまでも、想像の中の大空を飛ぶ。
麦酒で程よく麻痺した頭が、面白いように望む通りの感覚をもたらしてくれる。
酔っているわけではない。
悪酔いするほど飲まない程度の自制心はあるつもりだ。
傍目からはシラフに見えるよう、普段通りに振舞うことにも成功しているはず。
小さい頃から親に連れられ出席してた、貴族会の中で覚えた悪い遊び。
つまらない格式に拘束された、退屈な時間の、唯一の楽しみ。
それは今も形を変え、日々の娯楽の一つになっている。
「ちょっと親父、もう一杯よっ」
テーブルを叩きつけるグラスの音と怒鳴り声に、ターニャは閉じていた目を見開いた。
空想の暗闇飛行は中断され、ターニャの意識はフィリア市ルニーナ街の酒場に戻ってくる。
座席の斜め向かいでは、たったいま大声を出したナータが、顔を伏せて泣いていた。
「あうっ、あうううっ。ルーちゃぁん、なんで帰ってこないのよぉ」
「ほ、ほら元気出せって。ジュースでも飲んで、ひとまず酔いを醒ましてさ」
「こんな甘ったるいもん飲めるかっ。いいからさっさと麦酒を持ってきなさいよっ」
ナータは完全に酔っ払って酒乱と化しており、宥めてくれているジルを怒鳴りつけると、結局受け取ったジュースを一気に飲み干した。
「はぁ」
ジルが溜息を吐いた。
その光景を見て、ターニャの酔いは急速に冷めていく。
別にナータを責めるつもりもない。
アルコールが入ると一人遊びに興じてしまうのは、ターニャの悪いくせのようなものである。
今日は三人で酒を飲みに来ている。
その目的は、最近ずっと落ち込み気味だったナータを元気づけるためだ。
ルーチェがフィリア市を飛び出してから、一か月あまりが経っていた。
しかも、二週間前には残存エヴィルの活性化が始まっている。
現在、フィリア市には出入り制限が設けられている。
無断で市外に出たルーチェが帰ってくるのは非常に難しくなった。
それだけでなく、こんな状況では彼女自身の安否も気遣われる。
親友のナータにとっては気が気じゃないだろう。
封鎖が始まってから、彼女はまるでぬけがらのようになっていた。
このままではよくない。
そう考えて気分転換に酒場に誘ったのはジルだったが早くも後悔しているようである。
「ルーちゃんがいないこんな街なんて、滅んでしまえばいいんだわっ」
「落ち着けっ、まわりの人たちがこっち見てるだろっ」
「こんなに愛しているのに、なんで帰ってきてくれないのよぉぉぉ」
「だから泣くなってば!」
ターニャはそんな二人の姿を見ながら、麦酒をちびちびと飲みはじめた。
自制さえしていれば酔いがまわることはない。
ルーチェはナータの幼馴染である。
ターニャにとっても中等学校からの友人だ。
ジルも同様で、四人はいわゆる仲良しグループだった。
どうやらナータはルーチェに対して、単なる親友以上の感情を持っているようだ。
普段はやかましいほど明るく騒がしかったナータ。
そんな彼女が、夏休み後半からは誰とも口をきかず、自宅に引きこもりっぱなしなのである。
新学期が始まってからも、彼女は黒い影を背負っていた。
まるで恋人を失ったみたいな取り乱しようだ。
……などと考えて、ターニャは内心で自分を嘲った。
そんな体験、したこともないくせに、と。
「お前は本当にルーチェのことが好きなんだな」
「うん、そうなのっ」
何気なく言っただろうジルの言葉を受け、ナータの目がとたんに輝きだす。
「だって、ルーちゃんってかわいいし。とってもかわいいし、それにすっごくかわいいのよ!」
言っていることはよくわからないけれど、さっきまでの不機嫌面が一転して、子供のような無邪気な笑顔に変わっている。
酔いで頬を赤らめているせいか、普段よりも美人に見える。
ナータという少女は、同姓の目から見ても魅力的な容姿だと思えた。
以前に貴族会経由で入手した、街の若者一〇〇人からとったアンケート結果。
そこでナータは、非公式ながら街一番の美少女に選ばれていた。
もちろん、本人はそんなこと知らないはずだ。
美少女ランキングなんて、男たちの失礼で勝手な遊びに過ぎない。
とは言え、この無防備であどけない姿を見たら彼女のファンはもっと増えるはずだ。
「なのに、どうしてルーちゃんはここにいないのよぉぉぉ」
また一転、火がついたように泣き出すナータ。
美人ではあるが、その振る舞いは手のつけられない駄々っ子としかいいようがない。
「こんなに待ってるのに、ルーちゃんがいつ帰ってきてもいいように、家の掃除だって毎日やってあげてるのに」
「家の掃除って……ルーチェん家か?」
「他にどこがあるのよ」
「いやだって、いちおう他人の家だろ。鍵とかかかってないのか」
「こじあけた」
それは不法侵入……
突っ込む気力もないのか、ジルは顔に手を当ててうなだれた。
「でもね、なぜかルーちゃんの部屋の鍵は開かないのよ。鍵開けの技術書とかも読んで勉強してるのに、なにが悪いのかしら」




