380 ◆初等学校時代
それから一年間。
あたしは変わらず孤独な時代を過ごした。
学校の勉強はまったく楽しいとも思わなかった。
放課後に遊ぶ子たちを横目に一人で帰るのは寂しかった。
けど、自分から変わろうとするような勇気は、あたしにはなかった。
そんな姿を心配したのか、院長先生は転校を勧めてくれた。
いつまでたっても友だち一人できないあたし。
彼女なりに気遣ってくれてたんだろう。
気乗りはしなかった。
けど、別に嫌とも思わなかった。
はっきり言えば、どうでもよかった。
どうせ次の学校も同じ。
友だちなんてできやしない。
自分はそういう人間なんだから。
そう決め付けていた。
結局、あたしが転校を受け入れた理由は一つだけ。
毎朝の登下校風景はもう見飽きていたから。
本当に、それだけの理由だった。
院長先生の提案を受け入れたのは、その程度の気まぐれ。
本当に、心底からどうでもいいって思っていた。
この気まぐれがあたしの人生を変えた。
新しく通うことになった初等学校は少しだけ前より遠かった。
と言っても、歩いて二十分くらいだから、それほどの苦労でもない。
今度の学校は、前の学校よりも少しだけ綺麗な校舎だった。
通学路には緑が多く、新しめの住宅が立ち並んでいる。
これからの時を過ごすには悪くないと思った。
そこで、彼女に再会した。
※
先生に連れられ入った教室。
面倒な自己紹介は適当に終わらせよう。
あらかじめ考えていた脳内脚本は、教卓の前に立った瞬間に吹き飛んでしまった。
窓際、一番後ろの席。
太陽の光に照らされて、淡く輝いていたピンク色。
目が合って、一目でわかった。
ルーちゃんだ。
あたしは胸が高鳴った。
一年も前に、たった一度話しただけ。
なんてことはない、子供同士のふれあい。
それでもあたしにとっては、人生で最良の時間だった。
多分、あの時の彼女は、生まれてはじめてのともだちだったから。
頭の中が真っ白なまま、名前を言うだけの自己紹介を済ませる。
先生が指し示したあたしの席は、ルーちゃんの隣だった。
緊張した。
あたしは彼女のことを憶えている。
だけど、ルーちゃんはあたしの事、覚えてるかな。
そんな心配は杞憂だった。
「ナータちゃん」
そよ風のように、あたしの耳に、あの日からずっと聞きたかった声が届いた。
「で、あってるよね? 憶えてる? わたし、ずっと前に会ったことあるの」
天使の笑顔であたしの手に触れ、親しげに話しかけてくる、ピンクの髪の少女。
嬉しかった。
覚えていてくれたことが。
変わりない笑顔を向けてくれたことが。
「う、うん。あの、公園で会った」
気がついたら、あたしも自然に返事ができていた。
「おぼえててくれたんだあ。同じ学校だと思ってたのにね、ちがくってがっかりしちゃったんだよ。ナータちゃん、きれいだから、おぼえてたの。また、あえてよかったね」
きれい?
あたしが?
そんなことない。
ルーちゃんの方がよっぽどきれいだよ。
「あたしも、ルーちゃんにまたあえてよかった」
照れくさいとも、恥ずかしいとも感じなかった。
それが正直なあたしの感想だったから。
彼女はあたしに顔を近づけ、じーっとあたしの目を覗き込んできた。
「ルーちゃん?」
「あ、ちがった?」
……どうしよう。
ずっと大切に憶えていたはずなのに。
間違った名前だったの?
彼女はあたしのことを憶えていてくれたのに。
不安になったけど、ルーちゃんは力強く首を横に振った。
「ううん、ちがうけど、ちがくないよ。わたしルーチェ。べつに、ルーちゃんでもいいよ」
彼女は再び笑顔を見せてくれる。
「そういうふうによばれるの、はじめてだから、ちょっとうれしいかも。えへへ。あたしもナータちゃんのこと、本当の名前、しらなかったし」
あたしはホッと胸をなで下ろした。
ルーちゃんが怒ってないみたいで良かった。
この日から今に至るまで、あたしは彼女をその名で呼んでいる。
ルーちゃんがあたしを呼び捨てにするようになってからも。
あたしは彼女のことを、ルーちゃんって呼び続けた。
※
ルーちゃんと再会してから、あたしは変わった。
最初の数週間はまだ、彼女以外の人と話すことはできなかった。
それでも、人見知りしない性格のルーちゃんといると、自然と会話をするきっかけも増えてくる。
何人かのグループを作り、いっしょにお弁当を食べたりしているうちに、あたしは他の人とも喋れるようになっていった。
孤児院の中での生活にも少しの変化が現われた。
さすがに今まで半ば無視していたような仲間たちに自分から話しかけるのは無理だった。
けど、あたしが次第に言葉を発するようになってくると、周りの子たちのあたしを見る目も少しずつ変わってきた。
転校してから半年も経った頃。
あたしは別人のようにハキハキと喋れるようになっていた。
院長先生はあたしの変化を喜んでくれたし、孤児院の子たちも、変わり始めたあたしを受け入れてくれた。
自分で壁を破るだけで、こんなにも世界が変わるんだ。
たくさんの友だちができた。
けど、あたしはルーちゃんだけを一番の友達と思っていた。
休み時間はいつも一緒におしゃべりしてたし、放課後はよく家に遊びに行った。
遊ぶたびに仲良くなる。
お話をするたびにお互いのいろんなことを知る。
あたしはルーちゃんが恵まれた幸せな子だと思っていたけれど、それは間違いだった。
ルーちゃんは母親がいない。
お父さんもいつも仕事が忙しくて帰りも遅い。
よく遊んでくれた隣のお姉さんが引っ越してからは、一人きりで過ごすことも多かったらしい。
あたしはそれを聞いて恥ずかしく思った。
彼女が無邪気で明るいのは、育った環境が良かったからだと思っていた。
だけど、寂しい気持ちを抱えていても、ルーちゃんはあんな天使のような笑顔ができる。
そんな彼女のことを、本当にすごいと思った。
ルーちゃんは地域の児童合唱団に入っていた。
普段のルーちゃんの声は甲高く、舌足らずな感じだ。
だけど、歌をうたうときの彼女は、とても澄んだ声になる。
あたしは歌っているときのルーちゃんの声が好きだった。
彼女と一緒に歌をうたいたい。
そう思い、無理を言って同じ合唱団に入れてもらった。
あたしの初めてのわがままを、院長先生は快く叶えてくれた。
※
三年生になると、女子にちょっかいを出して喜ぶバカな男子が目立ち始めた。
大人しくて、およそ人と争うことを知らないルーちゃん。
彼女は何かと目をつけられていた。
「やーい、変な色の髪の毛」
バカグループはルーちゃんの髪をからかった。
確かにルーちゃんみたいなピンク色の子は他にいない。
でも、それは決して馬鹿にされるようなことじゃないはずだ。
「ん……」
ルーちゃんはからかわれても何も言い返さない。
ただ、俯いて黙り込むばかりだった。
彼女の悲しそうな顔なんか見たくない。
あたしはバカどもがルーちゃんをいじめるたびに、男子たちにくってかかった。
「あんたたち、ルーちゃんをバカにするな!」
「インヴェルナータがグレたー!」
あたしが怒鳴り散らすと、男子たちは捨てゼリフを残して消えていく。
反省のそぶりもないやつらを追いかけて叩きのめしてやりたい。
でも、それよりルーちゃんをなぐさめる方が先だ。
「気にしないで。ルーちゃんの髪、すごくキレイだよ」
「うん、ぜんぜん気にしてないよ」
彼女はそう言ってにこりと笑う。
やせ我慢なのは一目でわかった。
とても悲しそうな笑顔だったから。
ルーちゃんのピンク色の髪は、亡くなったお母さん譲りらしい。
話に聞いただけのお母さんとの、唯一の繋がりなのだ。
バカにされたら悲しいに決まっている。
ある日のお絵かきの時間。
バカ男子の一人が、いつものようにルーちゃんの髪をからかった。
「ピンク女ー、おれが染めてやろうかー?」
事もあろうに茶色の絵の具を溶かした水入れを持って、ルーちゃんの頭に近づけるマネをした。
あたしはいつものようにそいつを怒鳴りつけ、追い払ってやろうとした。
しかし、それより早く、つもりに積もった彼女の怒りは爆発した。
「もうやだ! なんでいつもいつもそんなこと言うの!?」
ルーちゃんは大粒の涙を零しながら、その男子から汚れた水入れをひったくり、
「そめればいいんでしょ!」
それを自分の頭上に掲げた瞬間。
「だめっ!」
あたしはルーちゃんに飛びついた。
男子に対する怒りなんかどうでもよかった。
ただ、彼女の綺麗な髪が汚れてしまうのが嫌だった。
「わわっ」
いきなり抱きつかれて、ルーちゃんはバランスを崩す。
あたしたち二人はもつれ合って床に倒れてしまった。
彼女が持っていた汚れた水は、飛び掛ったあたしの上に降ってきた。
あたしは髪から服まで、全身が茶色く染まってしまった。
「えへへ、大丈夫だった?」
ベタベタ纏わりつく汚れた水の気持ち悪さよりも、ルーちゃんの髪が汚れなかったことに安心し、あたしは笑った。
「ごめんね、ナータごめんね……!」
ルーちゃんは泣きながらあたしに謝った。
けど、あたしは少しも怒ってなかったし、悲しくもなかった。
ルーちゃんをからかった男子生徒は、先生から烈火のごとく怒られた。
厳しい先生だからあまり好きじゃなかったけど、この時ばかりは感謝した。
それ以降、ルーちゃんを髪の色をからかうやつはいなくなった。
絵の具かぶって真っ茶色になって帰ったあたしは、院長先生からひどく心配された。
だけど、事情を話すと呆れたような、喜んでいるような複雑な表情で、納得してくれた。
いろんな小さい事件を起こしながら、あたしはルーちゃんと一緒の初等学校生活を満喫した。
初等学校を卒業したあとも、ずっとこの関係が続くと信じていた。
そんなあたしたちに、唐突な別れの時がやってきた。




