295 ▽挿話・後悔
しばらくすると、向かってくる敵もいなくなった。
辺りにはなまぐさい臭気が充満している。
至る所に血が飛び散って赤黒く染まっている。
少女は新たな獲物を求めて船内を探索した。
何気なく立ち寄った医務室で温和そうな女性看護師を肉塊に変える。
その時、ふと少女の頭に弟のことがよぎった。
大五郎はどうしているかしら……
快楽に没頭するあまり、大切なことを失念していた。
大切な、大切な、ただ一人残った肉親のことを。
弟のことを思うと、少女の心に穏やかな気持ちが戻って来る。
他の人間たちとは違う。
命に変えてでも守るべき者。
大五郎のところへ行こう。
そして、二人でこの船から抜け出そう。
これからは二人だけで生きていく。
誰にも邪魔なんてさせない。
今はまだショックから立ち直っていないみたいだけど、いつか弟にも教えてあげよう。
この快楽を。
思い立つと、少女はいても立ってもいられなくなった。
血と肉の欠片で満たされた、地獄のような通路を駆ける。
少女はそんな凄惨な場所に似つかわしくない、幸福そうな笑みを浮かべていた。
この地獄を作り出したのは少女自身であるにも関わらず。
大五郎の部屋はどこだったかしら。
ああ、もどかしい。
誰かに聞ければ早いのに。
こんなことなら、ひとりくらい生かしておけばよかった。
はやく、はやく大五郎に会いたい。
その願いだけを胸に、少女は船内をひたすらに駆ける。
もはや自分が殺した人間たちの姿すら目に入っていない。
あるドアの前で立ち止まる。
確か、ここが弟の部屋だ。
扉に手をかける。
その時、左方から何かが飛んできた。
鋭く尖る氷の刃である。
少女は刀を振ってそれを切り落とした。
「まさか、こんなことになるとはな……」
怒りに満ちた声の主は、邪悪な力を操る金色の髪の妖術使い。
先ほど甲板で声をかけてきた、この一団の隊長である青年だ。
「すでに発病していたことを見抜けなかったのは俺の誤算だ。こうなった以上、お前を放置するわけには――」
青年の言葉は最後まで聞かなかった。
瞳に狂気の色を取り戻し、少女は矢のように青年に飛び掛かる。
よくも邪魔したな!
せっかく大五郎に会いに来たのに!
すでに少女の中から、自分たちを救った青年に対する感謝の気持ちは消えうせていた。
弟の以外の人間などすべて、自分の欲求を満たすための存在に過ぎない。
それなのに、この男は弟と会うことを邪魔した。
絶対に許せない!
少女は十メートル以上あった距離を瞬く間に詰めた。
だが、今度はさっきまでと同じようにはいかなかった。
完全に捉えたと思った。
青年の姿は、刀が空間を薙ぐと同時に掻き消えた。
代わっていつの間にか、少女の周囲に無数の火球が出現していた。
それらが一斉に少女へと襲い掛かってくる。
「ちっ」
少女は素早く剣を振る。
迫る火球を悉く切り裂いた。
裁ききれなかった幾つかの炎が少女の身を焼く。
致命傷ではないが、少女がこの船で始めて負った傷だった。
「やああ!」
気合一閃。
少女は炎の中から飛び出す。
裂帛の気合を込めて突きを放った。
それは青年の喉を貫く……はずだった。
「っ!」
刃は青年に届く寸前で阻まれた。
刀の先が、鋼のように硬い二枚の氷に挟まれていた。
「なんという剣速……単なる斬輝使いではなく、王宮輝士にも類を見ないほどの技量だ。ダイスと比べても遜色ないかもしれん」
ただの氷の障壁なら、少女の一撃でたやすく貫けてていただろう。
しかし、この青年は二つの氷で左右から挟むことで、切断されるのを防いだのだ。
一歩間違えれば、喉へ直撃を受けていたというのに。
この男はこれまでの獲物とは格が違う。
「ちっ」
少女は態勢を立て直すため刀を引いた。
青年が聞き慣れない言語で呪文を唱える。
「火炎圧壁」
青年の両の手から火炎が迸る。
その炎は視界を覆う壁となって少女に襲いかかる。
まともに受ければ黒焦げは必死。
しかし、この類いの妖術なら斬り裂くのは容易い。
彼女が刀を振り上げた。
その瞬間。
「蛇絡!」
炎の壁の一部が盛り上がる。
それは生き物のように少女の腕に喰いついた。
「うおああああああああっ!」
少女は炎に焼かれても刀を手放さない。
強く禍々しい唸り声を上げ、なおも襲いかかってくる。
その姿は先ほど会った時の陰を持った女性と同一人物には思えないほどだ。
青年は次の行動を躊躇った。
それは生死を分ける致命的な隙となる。
しかし、幾千の修羅場を潜り抜けてきた経験が、ほとんど反射的に次の術を唱えさせた。
「風衝撃」
紙一重で斬撃をかわす。
少女の腹に向けて風の術を放つ。
しまった、と思ったときには遅かった。
青年が僅かに見せた戸惑いは、彼から手加減と思案の機会を奪ってしまった。
暴風のごとき衝撃がまともに当たる。
少女は船壁を突き破って外へと吹き飛んだ。
その体が柵を飛び越え、荒れ狂う海へと投げ出される。
青年は急いで追いかけ、海原に目を凝らした。
しかし、すでに少女の姿はどこにも見えない。
「くっ……」
やるせない気持ちで漆黒の海原を睨みつける。
すると船室から若い男が現れて青年に声をかけた。
「大賢者様! ナコ・キリサキはどうなりました!?」
まだ二十代半ばの若い輝士である。
緊張した面持ちの中に、確かな恐怖と悲しみが垣間見える。
「……もう、いない。海へ落ちた」
「そうですか」
若い輝士の顔が安堵に緩む。
張り詰めた気が切れたのだろう。
彼は構えていた剣をだらりと下げ、その場で片膝をついた。
「あ、し……失礼いたしま……」
無理もない。
今回の調査が始まって以来の大惨事である。
新代エインシャント神国の正式な輝士と言えど、彼はまだ若い。
船内の惨状はあまりに惨たらしい。
青年とて、あのような光景を目にするのは先の魔動乱以来である。
「大丈夫だ、君はよくやってくれた」
青年は彼にねぎらいの言葉をかけた。
「私は……何もできませんでした。副隊長が無残に殺される姿を目の当たりにしながら、恐怖に足が震えて一歩も動けませんでした。輝士として、あるまじき」
若輝士は歯を食いしばりながら述懐する。
最後の方はほとんど涙声になっている。
「ナコ・キリサキはあまりに強かった。お前は自分の命を守っただけで十分だ」
「しかし、輝士としてこのような臆病な振る舞い!」
「もし自分を許せないのなら、もっと強くなれ。何のためにお前は生き残った? その意味を考えろ……とりあえず、動ける者の責務として生き残った人間を探して手当してやれ。これは命令だ」
「……はい」
改めて支持を与えると、彼は気落ちした様子で船内に戻って行った。
やるせない気分であった。
救うことができなかった。
病魔に冒された少女自身も。
犠牲になった兵たちも。
これは全て、少女の発病を見抜けなかった自分の責任だ。
検査の結果、姉弟に問題は見られなかった。
その報告を聞いただけで青年は安心してしまった。
境の年齢の者は遅れて発病するという可能性に気付くべきだった。
もう少し注意深く彼女を監視していれば未知の病魔の正体を知ることができたかもしれない。
最悪でも、このような悲惨な事件が起こるのは防げたはずだ。
だが後悔しても遅い。
その機会は永遠に失われてしまったのだから。
「なにが大賢者だ、仲間の命すら守れないで……」
青年は……
大賢者グレイロードは漆黒の海原を睨み呟いた。




