259 ▽前話・弟
「あっ、ねえ、ちゃ」
自分の姿を見て顔を緩ませる弟の顔。
それを見た少女も、泣きたいくらいに安心した。
いままで気がつかなかったが、ここは自分の家じゃないか。
弟はずっとこの場所で震えていたのだろうか?
だとしたら、生き残れたのは信じられないくらいの幸運だ。
それとも、正気を失った大人たちは、動く人間しか襲わないのだろうか?
ここでじっとしていれば助かるのか?
いいや、楽観はできない。
それよりも弟をつれて、できるだけ安全そうな場所へ逃げよう。
「立てますか?」
「う、うん」
「心配ありませんよ。おねーちゃんが守ってあげますからね」
弟を励ますために優しい表情を作り、震えを抑えた手を差し伸べる。
すでに幼子を見殺しにした事を思えば、白々しい科白だと思う。
それでも、せめてこの子だけは守ってあげたい。
少女は強くそう思った。
「おねーちゃん……」
弟がゆっくりと手を握り返してくる。
その顔は涙と煤でクシャクシャだった。
さぞ、怖かったことだろう。
無理もない。
自分だって逃げることに精一杯で、他人を気遣う余裕も無くしていたのだから。
こんな状況で、普段通りに振る舞える訳がない……
「なんで、こんなことになっちゃったの……?」
「考えるのは後にしなさい。それより今は、二人で安全な場所へ避難しましょう。走れますか?」
弟は頷いて握った手に力を込めた。
その力強さに、逆に勇気をもらえた気がする。
みんながおかしくなった理由なんて、少女にだってわからない。
ただ、一刻も早く、安全な場所へ逃げなければいけないことだけはわかる。
※
弟の手を引き、村外れに向かって走った。
さっきの場所まで行けば、とりあえず落ち着ける。
しかし、そう上手くはいかなかった。
姉弟の行く手を遮るように、またしても大人たちが立ち塞がった。
それも今度は四人だ。
「姉ちゃん……」
弟が怯えた眼差しで見上げてくる。
武器もなければ、弟を守りながら強引に突っ切るだけの体力も残っていない。
少女は周りを見回した。
狂った大人たちはまだあちこちにいる。
その中に一箇所だけ、人のいない方角があった。
しかし、それはさっきの場所とは反対だ。
こちらには丘の上の高台へと続く階段しかない。
少女は迷った。
いま決断しなければ、あっという間に大人たちに囲まれてしまう。
数秒の思案の後、少女は弟の手を引き、階段の方へと向かって走った。
二人は全速力で丘の上へと駆け上がる。
大人たちが追って来るかどうかはわからない。
だが少なくとも、村の中に残るよりは安全なはずだ。
※
息も絶え絶えに階段を昇る。
頂上に着くと、そこには小さな社があった。
土地神を奉る小さな建物だが、子供二人が隠れるには充分な広さがある。
二人は社の中に駆け込んで身を隠した。
社には扉も無いため、絶対に安全だとは言えない。
それでも、炎の明かりが届きにくい建物の中なら、外にいるよりは見つかりにくいだろう。
二人は暗がりに腰掛けた。
力を抜いて大きく息を吐く。
「ひっく、とうちゃん、かあちゃん……」
ひと息つくと、弟がまた泣き出した。
少女はおびえる弟をなんとか安心させてあげたかったが、かける言葉が思いつかなかった。
なんと言ったところで、起こってしまった惨劇は変わらない。
それでも弟を、そして自分自身を力づける言葉が欲しかった。
「大丈夫ですよ。こうして隠れていれば、きっと助かります」
朝まで待っていれば、村人たちは殺し合って全滅するかもしれない。
それはとても嫌な考えだが、闘う術を持たない子供二人が生き延びるには、それしかない。
いや、闘う術ならある。
けれど……
少女は首を振った。
そんなこと、できるわけがない。
自分たちにはこうやって逃げるしかできないのだ。
もしかしたら、まだ生き残っている子もいるかもしれない。
それを見捨てて、大人たちが全滅してくれるのを願う。
それは悲しく残酷な願い。
身を切り裂くような痛みを伴う選択だった。
それでも少女は助かりたかった。
自分と、この腕の中の小さな命だけでも、助かってほしいと思った。
「うん、そうだよね。姉ちゃんが言うなら、きっと大丈夫だよね」
自分を頼る弟の言葉に、ちくりとするものを感じながらも、少女は力を奮い立たせる。
この子だけは何があっても守らなくては。
だが、少女にできることと言えば、ただ誰も来ないよう祈るだけ。
もし大人たちがここまで上がってきたら?
身を挺してこの子を守れるのだろうか?
……考えるのはよそう。
見つからないはずだと信じよう。
「大丈夫ですよ」
少女は弟の肩を優しく抱いた。
それで安心したのか、弟の震えは次第に収まってきた。
もしかしたら、震えていたのは少女自身の体なのかも知れない。
二人は息を殺し、ただ時が過ぎるのを待った。
※
どれくらいの時間が経っただろうか。
社の明り取りの窓から見える炎の勢いは未だ衰えていない。
かなり長い間こうしていた気がするけれど、もしかしたらまだ数分しか経っていないかもしれない。
緊張の糸が切れたのか、弟は次第にウトウトとし始めた。
ここで眠ってしまうのは危険だと思ったが、あまり気を張らせ続けたくもない。
弟のことを思い出さなければ、自分一人が助かるために逃げ出していただろう。
取り返しがつかなくなる前に少女の心を救ってくれたのは、この怖がりな弟の存在だった。
少女は黙って弟の背中を撫でた。
せめて夢の中でだけでも、穏やかな気持ちでいて欲しいと願って。
夢。
この光景が夢であったなら、どんなに良いか。
大人たちがおかしくなって子どもたちを殺すなんて、悪夢そのものじゃないか。
眠りについて、次に目が覚めれば、いつもの布団の中で目を覚ますのかもしれない。
そうあって欲しい。
そう願わずにはいられない。
全身を覆う痛みが、そんなことはありえないと告げていても。
気がつくと、弟は穏やかな寝息を立てていた。
少女に抱かれて安心しているのだろうう。
普段と変わらない安らかな寝顔。
少女はその無邪気な寝顔を眺め、うっすらと微笑んだ。
気が緩むと同時に、たまらない眠気が襲ってきた。
弟の肩にもたれる。
二人は互いを支え合う形になる。
いっそこのまま眠ってしまおうか。
そう考えた時。
何か、硬い物がぶつかる小さな音が聞こえた。
少女はハッとして顔を上げる。
弟を反対側の壁に寄りかからせ、社の外を覗き見る。
音は規則的に続いている。
村へと降りる階段の方から。
誰かが階段を上って来ている。




