257 明日を信じて
私は屋根の上からトラントの町の夜景を眺めていた。
あちこちの家に明かりが灯っている。
この町に、たくさんの人たちが生活をしているのがわかる。
その向こうは真っ暗な闇。
昼間はあんなに青々としていた海面も、今はほとんど黒一色。
時々、雲の切れ間から覗いた月が、水面にバターを溶かしたような模様を描く。
闇の中に浮かぶ一点の灯りは、地方官さまが住む離れ島のお屋敷。
「ルーチェさん」
私の名前を呼ぶ声に振り返る。
屋根の端っこに立てかけられたはしごから、フレスさんがちょこんと顔を出していた。
「こんなところに居たんですか。ずいぶん探しましたよ」
「ごめん、何か用があった?」
「用ってほどでもないですけど、ちょっとお話がしたいなって思ったので」
はしごを登り切ると、フレスさんは私の隣に並んで腰を下ろす。
「ビッツさんが言ってましたけど、明日には出発できるそうですよ」
「うん」
「……そうそう、さっきジュストが帰ってきたんですけど、良い剣を買えたって、子どもみたいにはしゃいでましたよ。壊れた古代神器を残念そうに眺めてたのが嘘みたい」
「うん……」
笑顔で明るい話題を提供しようとしてくれているフレスさん。
そんな彼女の優しさに答えられない自分が辛い。
「……後味の悪い事件でしたね、お互いに」
五人が合流してから、今日で三日目になる。
あの後、地方官様の島から船で抜け出た私とビッツさんは、すぐにフレスさんたちと再開した。
喜んだのもつかの間、流された荷物の補充や馬車の購入など、やるべきことはたくさんあって、しばらくはトラントの町に足止めすることになってしまった。
あれから、わずか三日。
だけど、その間の町の変化はひどかった。
最初に来たときは、活気のあって素敵な町だと思った。
けど、二日目の早朝に増税が言い渡されて、町の空気は一変した。
市場には怒号が飛び交っていた。
衛兵と商人が小競り合いしているところも見た。
屋敷に住み込んでいた兵士たちは、大半が地方官さまの館を追い出された。
彼らが一斉に職業安定所に並んだせいで、あわや暴動かという大パニックになったらしい。
しかも今日の昼頃、地方官様の一声で安定所は閉鎖されてしまった。
行き場を失った人たちは多くが町から出て行った。
その後どこに向かったのかは誰も知らない。
唯一の救いは子どもたちを教会で引き取ってもらえたこと。
二日目の夜に、この国の王都から派遣されたっていう神父様がやって来た。
新しい神父様は即座に孤児院を設立し、一触即発だった町の人たちも宥めてくれた。
おかげで、とりあえず今は町も落ち着いている。
でも、きっとこれからが本当に大変になるはずだ。
ビッツさんの危惧していたとおり、町の人たちは密かに団結を始めた。
彼らが地方官様のお屋敷に殴り込みをかける日は、そう遠くないかも知れない。
「ねえ、フレスさん」
「なんですか?」
「エヴィルって、なんなのかな」
私がそんな質問をすると、フレスさんは表情をこわばらせた。
「フレスさんたちが戦った人みたいに、エヴィルを崇拝する人もいて、地方官様に乗り移っていたダティスみたいに人として生活していたケイオスもいて……エヴィルは人類の敵だってわかってるけど、これじゃどっちが正しかったのか――」
「エヴィルは敵だよ。おまえたち、ヒトのね」
答えはフレスさんとは別のところから返ってきた。
いつのまにか、私の後ろに黒い衣服を纏った金髪の少女が立っていた。
「カーディ」
黒衣の妖将カーディナル。
彼女はかつて最強と呼ばれたケイオスだ。
けれど今は私たちと同じく、魔動乱の再来を阻止するための旅をしている。
「今回は運が悪かっただけだよ。そして、ある意味では運が良かったとも言える」
カーディは黒い衣服を夜風にはためかせながら、私を見下ろして語る。
「『無窮の人形師』がもっと強力なケイオスだったら、おまえたちは殺されていた。逆に、ここの領主がもう少しまともなら、町はこんなことにはならなかった」
「そんなことわかってるよ、でも……」
「わかってないね。おまえが無窮の人形師を殺さなければ、この町はヒトの養殖場になっていたんだ。それがたったひとつの真実だよ。こうすればもっとよかったかもしれないなんてのは、単なる無い物ねだりのワガママだ」
「うっ」
「それでなくても、おまえは世の中を知らなさすぎる。もっといろんなものを見て、いろんなことを知れ。新代エインシャント神国に到着する前に。こんなところで迷って足踏みしてるんじゃない」
「わかった、わかったよ」
正直言って、カーディが何を伝えたいのかはよくわからない。
けど、もしかしたら、彼女なりに私を励まそうとしてくれているのかもしれない。
「私は後悔してませんよ」
フレスさんがそう言ってカーディを睨む。
カーディはフンと鼻を鳴らして、ふわりと飛び上がった。
「立ち止まって悩むくらいなら傷ついてでも前に進め。そして、もっと強くなれ」
その姿はすぐに闇夜に紛れて消えてしまう。
ただ、彼女が残した最後の声だけが周囲に響いた。
「なんだったんでしょうね、いったい」
「私にもわかんない」
カーディが急に現れて、難しい事を言って消えていくのはいつものこと。
彼女の言うことをあんまり気にしても仕方ない。
まあ、おかげで少しは気分も紛れたかな。
「ルーチェさん」
「はい?」
「これからも一緒に頑張りましょうね」
結局、フレスさんは質問には答えず、ただ私の手を取ってそう言った。
それでいいのかもしれない。
カーディの言うとおり、答えを出すにはまだ早すぎる。
「……うん!」
握った手に力を込めて、強くうなずく。
今は未来へと手を伸ばし、この足で歩いて行こう。
その先にきっと、誰もが笑顔になれる明日があると信じて。




