214 ▽妖精の森
神呪の森の奥深くに、小さな泉がある。
そこには妖精たちがいた。
小さな翅を広げ、踊るように水面の上を滑っている。
一枚の布を纏ったような薄緑色の衣装が、キラキラと木漏れ日を受けて輝いていた。
とても幻想的で美しい光景だった。
少女が最初それを目にしたとき、手を触れれば消えてしまうんじゃないかとすら思ったほどだ。
はじめは遠くから眺めるだけで我慢した。
でもそのうち、その美しい姿をもっと近くで見たいと思い始めるようになった。
一歩、一歩。
毎日少しずつ、泉に近づいていく。
今日はここまで。
明日はここまで。
怖がられないよう、ゆっくりと時間をかけて。
やがて、少女は妖精の側まで辿り着いた。
思い切って手を差し伸べながら、挨拶の言葉を口にする。
「こんにちは」
妖精は、長く尖った耳をピクリと震わせ、少女を見上げてた。
優雅に踊っていた動きを止め、半透明な翅を震わせながら、警戒しているように少女の目を覗き込む。
少女は辛抱強く待った。
自分から触れてはいけないと思った。
「うわ……」
やがて、妖精は少女の手の上にぴょこんと飛び乗って、小さく一礼した。
立ち入りを禁じられた森の奥。
少女はとても可愛らしい友だちと出会った。
※
「トレフ!」
母親の野太い声に、少女はベッドから飛び起きた。
「いつまで寝てるんだい、さっさと朝食を食べて仕事しな!」
「うー」
今年十歳になる少女の名はトレフ。
彼女はしぶしぶ服を着替え、母親のいるキッチンに向かった。
焦げたパンにバターを塗る。
良い匂いが漂ってきても食欲がわかない。
朝ごはんはいいから、まだもう少し眠っていたいと思う。
特にこのところ寒くなってきたから、余計にそう感じるようになった。
「ほら、たんとお食べ」
テーブルに差し出された山盛りのサラダを見て、トレフはげんなりした。
このサラダに使われているのはクラウトという植物である。
裏山でよく取れるこの村の名産だ。
たいして貴重でもないが、薬草の原料になる。
特別マズイというわけでもないのだが、物心ついた時から毎日毎日食べていれば、飽きもするというものだ。
「せめてドレッシングは毎日替えてよぉ」
「文句言うんじゃないの。このところの残存エヴィル活性化で交易商人もめったに来れないんだから、味のついたものを食べられるだけありがたいと思いなさい」
「……自分は化粧品とか買ってるくせに」
「何か言った?」
「なーにも!」
トレフはドレッシングをたっぷりかけたサラダを一気にかき込むと、パンを口にくわえたまま上着を羽織った。
「これ、食事は座ってちゃんと食べなさい」
「いほいれるんれひょ!」
トレフは母親の小言を適当に聞き流し、パンをミルクで喉に流し込むと、テーブルの下に置かれた手提げカバンを引っ掴んだ。
「それじゃ、行ってきます!」
「気をつけて行くんだよ! それと、神呪の森にはくれぐれも近づくんじゃないよ、いいね!?」
「はーい」
適当な生返事を返しながら、トレフは仕事に出かけた。
※
仕事といっても、村の男集に混じって畑を耕すわけではない。
トレフの仕事はクラウトの採取である。
これを定期的に来る商人に売りつけて、村の収入にするのだ。
とはいえ、二束三文で買い叩かれることがほとんどなので、ちょっとした副収入にもなっていないのが現実なのだが。
実質的には森の草むしりである。
さっそく人受の森に着いたトレフは、てきぱきとクラウトをナイフで刈ってはバッグに詰めていく。
その手つきは手慣れたもので、みるみるうちにバッグが刈った草でいっぱいになっていった。
昼前には今日のノルマ範囲をあらかた刈りつくしてしまった。
午後からは村の年長者が開く個人勉強会がある。
子どもに教育を受けさせることは国の法律で決まっているが、正直トレフは勉強が好きではなかった。
外のことを知っても、自由に旅に出られるわけでもなし。
輝術のあれこれやら、歴史やらを学んでも、この小さな村で過ごす分には全く関係ない。
役に立つことと言えば、精々毒草の見分け方くらいだ。
「あーあ、私も町に行ってみたいなぁ」
木蔭に腰掛けながら、思わずそんなつぶやきを漏らす。
虫や小鳥のさえずる声を聞きながら、しばらくトレフはボーっとしていた。
正午まで時間はまだまだある。
母親が思うよりもずっとトレフの草刈りは早い。
三年前から毎日やっているんだから当たり前だが、いつしかノルマを終えても時間が余るようになってしまった。
「……よし」
勢いをつけて立ち上がると、バッグはその場に放置して森の奥深くに進んでいく。
村の傍には二つの森がある。
一つはいまトレフがいる人受の森。
背の低い植物が多く、太陽の光も良く届く明るい森だ。
クラウトの採取ができるのもこちらである
もう一つは神呪の森。
背の高い木々が欝蒼と茂っており、昼でも薄暗い。
生えている植物は毒草や毒キノコが多く、村の人間が近寄ることはない。
一番の違いは、人受の森は村の結界内に含まれているのに対し、神呪の森はその範囲外なのである。
猛獣が生息しているわけではないが、十数年ぶりにエヴィルが活性化している今の時期は、危険なので絶対に立ち入ってはいけないと、大人たちからきつく戒められていた。
しかし、トレフは決まりを破ってたびたび神呪の森に入っている。
エヴィルなんて一度も見たことないし、出没するのは首都の近くや大国の領地がほとんどだ。
そもそもエヴィルの巣窟と呼ばれる八大霊場は、一番近い場所でもここからずっーっと離れている。
こんな何もない場所にエヴィルが現れることなんてあるわけがないのだ。
そんな風にトレフは思っている。
「大人たちはビビり過ぎなんだよ。商人が来る回数減る方がよっぽど困るっての」
悪態をつきながら、森の奥深くへ向かう。
ある場所を境にして、まるで昼と夜が逆転したかのように薄暗くなる。
その境を跨いだとき、わずかな違和感が体を通り抜けた。
よほど注意しなければ気づかないような微弱な感覚。
これが結界を越えた証である。
トレフは構わずに先へと進んだ。
慣れた足取りで木の根を避けながら、暗い森の中を奥へ奥へ。
十分ほどでたどり着いたのは、小さな泉だった。
一度足を止め、それから改めてゆっくりと近づく。
すると、泉の上を不思議な色の光がチカチカと煌いているのがわかった。
泉の上に、翅の生えた小さな人間がいる。
奇麗な長い髪の女性と、それより少し小柄なショートカットの女の子。
どちらも髪の色は目の覚めるような黄金色で、薄い緑色の布を合わせたような衣装を纏っている。
トレフが泉に近づくと、こちらに気づいた二人が動きを止めて目配せをし合った
「あ、ごめんね。続けていいよ」
言葉が通じているとは思えないが、トレフはそう言ってその場に座り込んだ。
こちらが動かないことを確認すると、翅を持つ少女たちは踊りを再開した。
一度は手に触れることができたとはいえ、やはり無遠慮に近づかれるのは好まないらしい。
あの後も無遠慮に近づこうとして、驚いて逃げられてしまったことが何度かあった。
怖がらせたいわけじゃない。
トレフはここで彼女たちのダンスを眺めているだけで満足だった。
「いつ見てもきれいだなぁ……」
思わずため息さえ漏れるほど、その姿とダンスは美しかった。
彼女たちはきっと『妖精』だとトレフは思う。
絵本の中でしか見たことないし、村の大人たちにそれとなく聞いても、そんなのはいないって言われたけど、間違いない。
掌サイズの小ささ。
まるで人形のような繊細な美しさ。
そしてなにより、尖った耳と半透明の二対の翅。
間違いなく小さい頃に絵本で読んだ妖精そのものだ。
退屈な日常の中で、妖精の踊りを眺めている時だけが、トレフにとって安らぎの時間だった。
ここなら大人たちのうるさい声も届かない。
来慣れているトレフならともかく、知らない人が偶然辿りつけるような場所でもない。
ましてや大人たちはエヴィルを恐れて神呪の森には近づこうとしないし。
「お前たちはいいよなぁ。自由に空を飛べて」
妖精たちは昼前のこの時間にしか姿を現さない。
きっと普段は別の所にいるのだろう。
後を追おうと考えたこともあったが、少し目を離した隙に煙のように消えてしまうため、彼女たちがどこから来てどこに帰るのかはわからない。
しばらくすると、大きい方の妖精が泉の外の茂みに姿を隠してしまう。
それに続いて小さい方も、パッと消えるように居なくなってしまった。
短いショーの時間はあっという間に終わりになった。




