127 ▽怒りの理由
ルーチェは何が起こったのか理解できなかった。
夢の中に彷徨いこんだかのような非現実感だけがあった。
頭を必死に回転させ、現状を理解しようと勤める。
ほんの数秒前まで楽しくお喋りをしていたのに。
ナータと一緒にいっぱい服を買った。
久しぶりに会った彼女は昔の面影を感じさせないほどに活発になっていて、最初はその違いに戸惑いもしたけれど、とても楽しい時間を過ごすことができた。
そのせいでジルさんたちを待たせてしまったことは悪かったと思う。
思ったから機嫌悪そうにしていたジルさんにごめんなさい、って謝った。
そしたら許してくれた。
いつもどおりの優しいジルさんだった。
原因はわからないけれどナータはジルさんに対して良くない印象を持ってしまったらしい。
でも普段のジルさんと接すればきっと仲良くなれるはず。
そう思ったからナータにも普段の優しくて面白いジルさんを見てもらおうと、冗談交じりに会話を膨らませようとした。
二人が気兼ねなく自然におしゃべり出来る雰囲気をつくるために。
頑張って、さりげなく。
なのになんでこんなことになってるの?
いま正面には頭から水をかぶったナータがいる。
滴る水で前髪は垂れ、その下の表情をうかがうことができない。
ナータの対角線上、つまりルーチェの隣には立ち上がって空のコップを握り締め、はぁはぁと息を荒げたジルがいる。
眉を寄せてナータを睨みつけ、歯を噛みしめて全身を震えさせている。
ジルが怒ると怖いのは知っている。
けど、こんな彼女を見るのは初めてだ。
「……じょーとー」
ゆっくりとナータが顔を上げる。
凍えるような悪寒が背筋を駆け上る。
冷たい、とても冷たい真冬の月を思わせるような、酷く冷徹な目。
怖い。
初等学校時代を一緒に過ごしてきた少女の別人のような顔を見て、ルーチェははっきりとそう感じた。
ひょっとしたら何か悪いものにでも取り付かれたんじゃないのか。
そんな風に考えてしまうほど言いようのない不安に押し潰されそうになる。
ナータが派手な音を立ててテーブルを叩いた。
隣の席のターニャがびくんと震える。
「や、やめてっ!」
ルーチェは反射的に立ち上がった。
ジルに向けて手を伸ばそうとしたナータをテーブル越しに押さえつける。
ナータの瞳がルーチェを向いた。
ぞくり。
目が合った瞬間、動けなくなってしまう。
この娘は誰? 本当にナータなの?
怖いよ、やめて。
そんな目で見ないで。お願いだから。
ルーチェは思わず手を離してしまう。
逃げ出したい。そう思った。
その時ナータの表情から険が取れ、今にも泣き出しそうに歪む。
「あ、あの、ルーちゃん」
名を呼ばれてハッとする。
と同時に使命感がわき上がった。
「ちょ、ちょっとこっちに来てっ。ねっ」
ルーチェはナータの手を掴んで席を立つ。
とにかく今はジルさんからナータを遠ざけなきゃ。
ルーチェはナータの手を引いて店の外に連れ出した。
ナータは抵抗もせずにされるがままだった。
ふと入り口で振り返ると、ターニャと目が合った。
心配そうな表情をしている彼女に、ごめんそっちはお願い、と瞳で合図してルーチェたちは喫茶店を出た。
※
「ねえ、なんであんなこと言ったの?」
商店街から少し離れた人工栽培された木々が立ち並ぶ小さい公園。
そこでルーチェたちは並んでベンチに腰掛けていた。
ハンカチでナータの髪を拭きながらおそるおそる尋ねてみた。
ナータは視線を合わせようとしない。
焦点の定まらない目で広場の中央で水しぶきを立てる噴水を眺めている。
その瞳はさっきまでの冷たい目じゃないけれど、どこか空虚じみていた。
ナータは喫茶店を出てから今まで一言たりとも口を開いていない。
「ねえ黙ってちゃわかんないよ、なんであんな……」
「ごめん」
無視されたのが気に障って少し強めに言い直す。
と、ナータの口から短い言葉が漏れた。
彼女の横顔はとても悲しそうに見えた。
「ごめんね」
もう一度ナータの唇が動いた。
それが謝罪の言葉であるということにルーチェは数秒遅れて気がついた。
「あ、うん……じゃなくって」
ルーチェは頭を振って表情を引き締める。
「何であんなこと言ったの? ジルさんは何も悪いことしてないのに」
ルーチェが言った途端、ナータがこちらを振り向く。
怒っているような悲しんでいるような、複雑な表情だった。
水気を帯びた髪の隙間から除く瞳は妖しげに美しく、ルーチェは場違いにもドキリとしてしまった。
てっきり何か言うのかと思って待っていたらナータはすぐまたそっぽを向いてしまった。
その態度にルーチェは軽い苛立ちを感じてしまう。
「ねえ、何がそんなに気に入らないの? ジルさんだって私の大切な友達なんだからナータにも仲良くしてほしいのに」
そっぽを向いたままのナータがピクリと反応した。
「だから……ごめんってば。迷惑かけて」
「そうじゃなくって、謝るならジルさんに謝って。理由を言いたくないならいいよ。ジルさんの事を嫌いなら無理に仲良くなってとは言わない。でもさっきのはナータが悪いよ。水をかけたのはやりすぎだと思うけど、酷いことを言ったのはナータなんだから、一言でいいから謝ってほしいなって」
「絶対イヤ」
ナータの澄んだ声がやけに遠くから響いてくる。
たった一言でルーチェは説得を続けられなくなってしまった。
「な、何で」
「イヤだけど……」
ナータの顔が真っ直ぐにこちらを向く。
「ルーちゃんが謝れっていうならそうする。迷惑はかけたくないから」
『ルーちゃんがそうしてほしいっていうなら、そうする』
そのセリフと横顔に小さい頃のナータの姿が重なった。
人見知りだったナータが、まだほとんど他人と言葉を交わさなかった頃。
自分以外の人と打ち解けなかったナータに「他の子ともお話してみなよ」と言ったときの事。
あの頃のナータは内気で人見知りが激しかった。
口数も少なくて人形みたいな娘だった。
けどルーチェと話す時だけはとても素直で可愛い女の子だった。
ナータがゆっくりと立ち上がる。
ルーチェは彼女を見上げた。
濡れた髪がキラキラと光り見る者の心を奪うほどに美しい。
誰かに似ているとルーチェは思った。
「ごめんね。友達の前で恥かかせちゃって」
背中で手を組んで俯きながら謝るナータ。
ああ、わかった。
中等学校時代の教科書に載っていた神話の絵画にそっくりなんだ。
本当に自分と同じ年なのだろうか。
こうして気軽に話していてもいい人物なのだろうか。
そんな風に考えてしまうほどナータの姿は神々しく、美しかった。
「先に帰るね」
ナータがくるりと背を向けた。
その瞬間、場違いな考えを巡らせていた意識が戻ってくる。
さっきまでの神々しさが嘘と思えるくらい、ナータの背中は弱々しく見えた。
「あ、私も……」
「ごめん、ひとりで頭冷やしたいから」
ナータはそれだけ言うとさっさと歩いて行ってしまった。
「ナータっ」
放っておくわけにはいかない。
そう思ってルーチェはナータを呼び止める。
彼女は立ち止まって少しだけ傾いた。
半分だけ顔が見えた。
瞳は見えなかった。
頬には水滴が伝っている。
泣いてる?
そう感じた次の瞬間ナータはまた振り向いて歩き去ってしまった。
彼女の雰囲気が後を追うことを躊躇させた。
ベンチに腰を下ろし、姿が見えなくなるまでナータの背中を見送り続けた。
その姿はやはり自分と同年齢とは思えないほど大人びて見えた。
※
喫茶店に戻ってみてたけれど、すでに二人の姿はなかった。
ルーチェは暗い気持ちのまま一人帰路につく。
さっきナータの頬を伝ったのは髪から滴る水滴だったのかもしれない。
涙であるように見えたのはルーチェの気のせいなのだろうか。




