110 封じられた『ケイオス』
私は思わず悲鳴を上げそうになった。
女性には目がなかった。
正確には、目があるはずの部分に別のモノがある。
やけに豪奢な造りの短剣が眼窩に深々と突き刺さっていた。
「もっとちょくちょく来てくれよ。話し相手もいなくて暇なんだ」
かすれるような声で女性がいい、含み笑いをした直後。
「うるさい!」
ソフィちゃんが、今までの彼女からは信じられないような、怒気をはらんだ声を上げた。
彼女は近くにあった大きめの石を拾い上げ、女性に近づく。
そして大きく腕を振り上げると、握り閉めた石で女性の顔を叩いた。
「ククッ、痛いよ、お嬢ちゃん」
「うるさい! うるさい! うるさい!」
何度も、何度も、何度も。
怒声を張り上げながら女性の顔を殴打する。
「なにやってるの!? や、やめなさいっ!」
私は信じられない行為をするソフィちゃんを後ろから抱き留めた。
たとえ小さい女の子の力とは言え、こんな風に叩いたら死んでしまう。
ソフィちゃんは抵抗することなく殴打をやめたけれど、私の腕の中ではぁはぁと息を荒げながら女性を睨み続けている。
「一体どうしたの!? こんな乱暴なこと、ソフィちゃんらしくないよ!」
「ルーチェ、お願い」
ソフィちゃんの身体は強く強ばっている。
ふと見ると、石を握り閉めた拳から血が垂れていた。
殴られた女性の血じゃない、ソフィちゃんの血。
「こいつを、殺して」
「な……」
信じられないソフィちゃんのお願いに、私は言葉を失った。
殺して……?
この人を……?
「なんで、ダメだよ、そんなの」
状況もよくわからず、当然のようにそう反論するけれど、
「こいつはローザのカタキなの!」
さらに意味不明な言葉にますます混乱してしまう。
ローザって、たしか姉妹の一番上のお姉さんの名前。
八年前に残存エヴィルに襲われて死んだっていう。
その話をしてくれたのは、ソフィちゃんだった。
「なに言ってるの。だって、ローザさんはエヴィルに殺されたって……」
「こいつがそのエヴィルなの!」
「クククッ、その呼び方は嫌いなんだけどねぇ」
見ると、殴られた女性は顔から血こそ流しているけれど、小馬鹿にするような笑みを浮かべて平然としている。
「え……?」
「ヒト共は獣も青奴も我々も一緒くたにそう呼ぶ。一緒にするなって感じだよ。ま、異世界のやつらに言っても仕方ないか」
女性は少し不快そうな声で言った後、
「そっちの娘は会うのは初めてかい? ワタシは『ケイオス』のヴァイオレ。まあ、せいぜいワタシの暇つぶしに付き合ってくれよ。クククッ」
こちらを向いておかしそうに笑った。
やはり視界が効かず、音だけを頼りにしているのか、微妙に向いている方向がズレているけれど。
「うるさい。いま、おまえを殺してもらうから待ってろ」
「ほう? そいつは楽しみだねえ、クククククッ!」
憎しみを込めたソフィちゃんの声に対して、ヴァイオレと名乗った女性はまともに取り合わなかった。
まるで自分を殺すことなんて無理だとでも言いたいかのよう。
「ルーチェ、お願い……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何が何だかわからないよ。いったい、その人は何者なの? なんでこんなところで縛られてるの?」
エヴィルだの、ケイオスだの言われても、私の目には彼女が普通の人間にしか見えない。
目に剣を突き刺されて生きていられる人がいるのかっていうのは疑問だけど。
「そっちのお嬢ちゃんは耳が遠いのかい? ワタシはケイオスだって言っただろ」
「だから、ケイオスって……」
「ケイオスというのは上位エヴィルのことよ」
私の疑問に答える声は背後から聞こえた。
振り返ると、淡い光に照らされてフレスさんが立っていた。
いったい、いつの間に……
「動物同然に知性の見られない下位エヴィル。輝術に似た力を使う人型の中位エヴィル。そして明確な意志と感情を持ち、人語を解する上位エヴィルをケイオスと呼ぶ」
「ふ、フレスさん……?」
エヴィルについて流暢に解説するフレスさんはどこか彼女らしくない違和感があった。
その視線はうつろで、ただ目の前のケイオスという女性を見ている。
「八年前にこの辺りに現れた残存エヴィル、それがケイオスだという事実は公式には抹消された。理由は、小国に派遣した輝士の任務失敗を明るみにしたくないから」
「なにを言って――」
「ルーチェ、あぶない!」
突然、ソフィちゃんが後ろからぶつかってきた。
その直後に私がいた場所を銀色の刃が薙ぐ。
フレスさんが持っていた包丁で斬りかかってきた。
「な、なにするんですか!?」
「そいつはフレスじゃない!」
叫びながら私にしがみつくソフィちゃん。
フレスさんはこちらをちらりとも見ず、拘束されている女性に近づくと、その前でしゃがみ込んだ。
「討伐は失敗し、輝士はケイオスを現地に封じるのがやっとだった」
その時、私は初めてあることに気付いた。
女性は鎖に縛られている。
それと別に、彼女の周囲には見えない違和感があった。
流読みを凝らさなければ気付けない、村に張ってある結界と同じものが。
「ずっと探していたのよ。まさかこんな所にいるとはな」
「あん? なに言ってんだい、お嬢ちゃ……んっ!?」
フレスさんが女性に手を翳す。
途端に彼女の手から奇妙な光が溢れた。
もっと正確に言えば、女性の身体が光の粒子に変化している。
「狼雷団のもう一つの目的は貴様を探し出すことだった」
「お、オマエは、まさかっ……!?」
「手に入れた禁呪の真価、それはエヴィルの力を身体に取り込むことだからな!」
「や、やめろ! やめろやめろ、やめろオオオオォォォォォーッ!」
まるで弾けるように女性の身体が光の粒へと変化した。
それはフレスさんの手から彼女に吸収されるように消えていく。
一瞬後には、女性の姿は完全に消失し、彼女を拘束していた鎖がじゃらりと音を立てた。
「フレス、さん……?」
私は地面にへたり込んだまま、彼女に声をかけた。
フレスさんがこちらを見た。
そのままゆっくりと手を上げると、
指先から氷の矢を飛ばした。
それは私の脇腹を掠め、近くの地面に突き刺さる。
「え……?」
フレスさんが、輝術を使った?
しかも、輝言の詠唱もなしに。
彼女は自分の指先を見つめ、笑う。
「くけけけっ! 無詠唱で輝術を撃てるとは実に面白いものよなあ、天然輝術師のお嬢ちゃん!」
聞き覚えのある、嫌らしい笑い方で。
姿も、声も、フレスさんのものに間違いない。
けれど、こいつは……っ!
「まさか……スカラフ!?」
「そうよ、そのとおりよ! 今はこの娘の身体を借りているがなぁ!」
フレスさんは以前に一度、スカラフとすれ違ったと言っていた。
その時に肩を軽く叩かれたとも。
「念のため自我のコピーを移しておいて正解だったわ! 元の身体は大賢者に滅ぼさてしまったが、もはや老いぼれた肉体など惜しくない! なにせ探し求めていたケイオスの力を手に入れたのだからな!」
どんな手段を使ったのかはわからないけど、スカラフはフレスさんの身体を乗っ取った。
しかもここに封じられていた上位エヴィルの力まで吸収した。
「八年前にひっそりと封じられたケイオス。なるほどファーゼブル輝士団の仕事らしく封印は完璧だった。しかし蓄えられた力は全盛期と変わりなし! 不死ゆえ滅ぶこともなく、私に喰われるため今日まで生き永らえてくれたこと心から感謝するぞ! くけけけけっ!」




