#10
いつのまにかぬるくなってしまったコーヒーを啜って、私は、あ、と声を漏らした。
隠し事はもうなしだよ。
千草がそう言いだしたあの日、私たちは喧嘩をした。
喧嘩、と言えるかどうかわからないものだったけど、あれは喧嘩だったと思う。
三年になる今日まででたった一度だけの喧嘩。
きっかけがなんだったかなんて覚えていない。積み重なった不安や不満が爆発したんだと思う。
まだぎこちなく様子を伺いながら駅まで肩を並べて帰っていた時期のことだ。
普段は言葉を交わさなくても私と同じペースで歩いてくれていた彼が、一度もこちらを見ることもしないでさっさと帰っていってしまったことがあった。
置いていかれないように小走りで彼の背中を追ったものの、赤になってしまった信号に引き離されてしまい、私は一人取り残されたのだ。
どうして?私何か悪いことした?
しかしいくら考えても、一日の出来事を振り返ってみても何も思い当たる節がなくて、私は彼にメールを送ったんだ。
どんな内容だったかはもうすっかり忘れてしまったが、それでもそのメールを送ってる最中、きっとこれがこの人と最後のやり取りになるんだろうな、と思っていた。
別に好きじゃなかったし ……
好きだったくせに強がった。
話してても面白くないし ……
もっと話をしたい、と思っていたくせに自分の気持ちに嘘をついた。
趣味も合わないし ……
あまり聞くことのないジャンルの音楽の話をする千草の楽しそうな笑顔を見るの、好きだったのに。
もうどうでもいいや ……
どうでもよくなんかなかった。
どれだけ強がって、どれだけ自分に言い聞かせても、結局私は千草のことが好きだった。
その想いだけは自分をごまかすことができなかった。
「どうした?」
千草が心配そうに私を見ていた。私はそんな彼に笑いかける。
「そういえば、たった一度だけの喧嘩も似たような喧嘩だったなーと思って」
「俺が置いていったことまだ根に持ってるの!?」
千草は少しばかり困った表情を浮かべていて、そんな彼に「いやー、寂しかったなー」なんてわざとらしく言ってみた。
ごめんってばー、何をしたら許してくれるの。とあからさまにしゅんとしてしまった千草の髪を撫でながら私は笑う。つられて彼も笑った。
「ごめんごめん。 …… ほんと、ごめんね」
私は両の頬を膨らませる彼を抱きしめながら何度か謝った。
あの頃の私たちには悲しい出来事で、あの日の私にとっては苦しい時間だった。
しかし、そんな悲しく辛い出来事もいまは、懐かしい思い出に変わり、こうしてじゃれあいながらするりと出てくる思い出話にすり替えられている。
時間の流れって不思議だな。
拗ねてしまった彼をあやしながらそんなことを思う。
「千草。 …… 頑張りすぎなくてもいいからね」
「おう。頑張りすぎない程度に頑張るよ」
もう三年なのか、まだ三年なのか。
夫婦といえど、育ってきた環境も性格も何もかもが違う他人だ。
言葉以外で寄り添っていく方法はきっとないんだと思う。
それを気付かせてくれた少女の顔を思い出しながら、また明日にでも会えた時に、ちゃんとお礼を言わないと、と思いながら、先ほどご飯を食べ終えたばかりだというのに菓子袋を片手に「信子が好きな番組、もうすぐ始まるよ」と声を弾ませながらリビングへと向かう彼の後を追いかけた。




