#8
ただいま、とすこし疲れた声が部屋に響いたのは気持ちのいい眠気に身をゆだねてしまおうか、と考えていた頃だった。
パタパタと玄関まで行き「おかえりなさい」と笑顔を向けると千草は少しだけ驚いた表情を浮かべていた。しかし、そんな表情はすぐにいつもの無邪気な笑顔に変わる。
「あ、今日カレー?」
いまにも飛び跳ねそうなほど声を弾ませる千草は荷物をリビングに無造作に投げ込むと温め直す鍋の中を覗き込んでいた。
「今日は千草の大好物にしてみたのです」
明るい声で言えば彼は「やったね」とふにゃりと笑い、そして食器の用意を手伝ってくれた。
カレーなんてどれも同じような味なのかもしれない。しかし、今日はいつもより美味しくできたような気がしていたし、少しは自信があった。せっかく美味しく出来上がったんだ。いまはカレーを味わい、話はそのあとにでもしよう。そんなことを頭の中で考えながら私はカレーをテーブルへと運ぶ。
いただきます。
声を揃えて言うと私たちはカレーを頬張った。
千草に負けず劣らずの勢いに、いまさら自分がお腹を空かせていたことを知る。
自分の作る料理ってあんまり美味しいと思わない。
上手にできたかなー、と思っても思い通りの味には行かなくて、まだまだだな、と内心へこむことが大半だった。
そんな自分の料理でも、カレーだけは違った。
前回よりも今回の方が美味しい。上手に出来た。
作れば作るほどにそう思った。
他人からしたらただ自惚れているだけのようにしか見えないだろう。
しかし、本当にそう思うのだから仕方がない。
そもそもカレーというのは、私にとって大切な日に作る食べ物なのだ。
母の日に、何かの記念日に、仲直りがしたいとき、元気がないなー、と慰めようと思ったとき …… 。
まだ付き合い始めたばかりの頃、初めて千草に作った手料理もカレーだった。
そして、千草はそれを覚えていて、私のカレーを大事にしてくれているのを知っている。
「美味しいね。 …… 信子のカレーはやっぱりいいね。大好きな味だ」
大好きな味。それは最高の褒め言葉だった。
「あのね、千草に話したいことがあるの」
いつものように、ごちそうさま、と声を揃えて、食器を片付け始めてしまったら話をするタイミングがなくなってしまいそうな気がして、私は彼の食器が空になったことを確認してすかさず話題を振った。
「実は俺もあるんだ」
でもその前に、と先ほどまで真剣な表情を浮かべていた彼はふにゃりと笑いながら「とりあえずテーブルの上、片付けちゃおうか」と言った。
そうだね、と私たちはいつものように「ごちそうさまでした」と声を揃えて、各々食器を片付けた。
少し長くなるかもしれない、と淹れたコーヒーを啜りながら私たちは再びテーブルに戻る。
どちらが先に口を開くか …… 。
お互いに様子を伺いながら、無意味にコーヒーを何度も啜った。
そうして、付き合いたての頃、駅までの帰り道もデートの時もこうしてお互いに様子を伺っていたっけなぁ、なんてぎこちなかったころのことを思い出し、思わず笑ってしまう。
何が可笑しいの?
言葉にしなくても、目がそう訴えていた。
「なんかこのぎこちなさ、すごく懐かしい」
「あぁ、そういえばまともに話すこともできなくて、無言のまま駅まで歩いてたね」
きっとあの頃の私たちはまさか結婚することになるなんて思ってもいなかっただろう。
「今日ね、押し入れの中整理してたら、タカラバコを見つけたの」
気付くと私は自然と彼に今日の出来事を話し始めていた。




