プロローグ
人は忘れる生き物である。
そうしなければ壊れてしまうほどに脆いからだ。
嫌なことがあっても、それを忘れることが出来るから死を求めようとは思わない。
楽しいことがあっても、それを忘れることが出来るから何度でも最高の喜びを感じることができる。
そうして、その人の世界は救われていくのだ。
世界とは何か。それは個人が見る人生という物語の舞台に過ぎない。故に世界とは複数存在して、本当の意味で交わることのないものであるというのが俺の見解だ。
だから、世界を救う=その人の価値観を守るというなんとも無理矢理な定義が完成しつつあるのだ。
そもそもだ。この世界にあってはならないものが三つある。
それは殺人とリア充と異能力だ。
なんだかラノベのタイトルかというくらいに並んだこの三つは、半ば私感が混じっているものの的を得ているとは思わないか?
まあ、賛同を期待しているわけではない。
その・・・なんだ・・・。
殺人は人としてのタブー。これは否応なしに理解していただきたい。
リア充は死ねばいい。これは私感じゃない! 皆の声なんだ! そうだろう? そうだよな? そうだと言ってくれっ! とまあ熱くなるのはさて置き、結局のところ現実が充実。即ち現状に満足しているというのは良くない。
例を挙げよう。まずリア充のカップルがいるとする。このカップルは・・・そうだな結婚を視野に入れているとする。そんな中、悲劇がどちらかを襲う。目が見えなくでもいいし、歩けなくなるでもいい。最悪は死去という最悪が身に起きたとき立ち直ることのできる人間はどれくらいかという簡単な問題だ。
答えはわずか。あるいは稀。本当に少ないのが現実だ。どんな確率だ! なんて言葉もごもっとも。大袈裟に、尚且つ遠まわしに何を言いたいのかというと、現実を見ろということなのだ。
この場合のリア充というのは一般的な見解とは少し異なり、リアルが充実しているというよりも、リアルに依存しすぎているということ。
現実思考は素晴らしいが、現実にはありえないだろうっていう最悪の奇跡は常に身の回りに存在し得るのだということを忘れないでいただきたい。
なぜこんな回りくどく意味も対してなさそうなことを熱弁しているのかというと、三つ目を語るためである。
異能力。これはダメだ。人を不幸にするために生み出された呪いとしか思えない。
ファンタジーや中二的観念からすればカッコイイ。それはいいだろう。俺だって大賛成だ。だが、現実として異能力というのは都合のいいもので片付けられてしまう。
そうじゃないんだ。
実際、異能は敬れもしなければ褒められもしない。使う本人だって壊れてしまう。だからそれを救わなくてはいけない。
こんな異能力がリアルにある世界を救う。
それはきっと間違いなくハッピーエンドが待ち構えているのであろう。なにせ、物語の主人公である神海暁晃はそれこそ世界を救う異能を手にしていたからにほかならない。
そう。もしもその結末にたどり着いたとき。きっと彼はもうこの世界からも忘れ去られてしまうのだろうから。
彼が手にした異能はそれほどまでに残酷で無慈悲で、それでいて誰かの現実を守ることだけに特化してしまっているからだ。
ここで答えよう。なぜリア充が嫌い・・・もとい、あってはならないのか。救っても自分が幸せになることなんて一生訪れないからである。訂正します。これは小さな私感でした。
きっとこの物語にハッピーエンドは訪れない。
なぜなら、この物語の主人公が彼である限り、彼の隣に寄り添う者などいないから。
それでも読みたいというのであれば読んでくれ。
彼の勇姿は既に画面の中にしか残っていないのだから。