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Soap Dish  作者: シトラチネ
Soap Dish
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7. 神のみわざであると、願わくは

 僕の時間は止まったきりだ。

 白い朝陽が射す。影が木立の足元でぐるりと回る。黄昏色の夕陽がふつりと窓から逃げ出し、やがて重い闇が落ちてくる。

 日が長くなり、お客さんの服装は軽くなって色彩が増える。窓の向こうに見える桜のつぼみはふくふくとしはじめる。

 だけど僕の時間は止まったきりなのだ。その理由を僕は知っている。

 時が経つという現象は、陽の周回や針の進行が決めるのではない。僕にとってそれは、彼女のせっけんが小さくなっていくということだった。空虚な、一滴の水分もなく乾いた受け皿は時を数えない。

 プロヴァンス産のラヴェンダーのせっけん、あれは今どうなっているだろう。どのくらい軽くなっただろう。もしかして代替わりして、僕の知らない香りのせっけんが据えられているかもしれない。

 どんなソープ・ディッシュが水切りしているのだろう。精霊つきだろうか。

 僕はどうしてそれを知ることができない身に堕ちたのか。

 あれからルイさんとアスリさんがたまに会っているようなのは、ルイさんと懐中時計さんの会話から推測できる。だが彼女は僕を手放して以来、一度もこの店にはやって来ない。

 モノは人の手から人の手へ流れていくのが当然だと思っていた。ソープ・ディッシュとしてせっけんを美しく保てれば、それでいいはずだった。

 なのに僕は彼女以外の人間のためにそれをすることを嫌がり、僕以外のソープ・ディッシュが彼女のために働くのを嫌がり、彼女の運命のリボンが僕以外とも結ばれるのを嫌がった。

 ――人間であるアスリ嬢とは、どれほど恋の炎を燃やしても溶け合うことは叶わん。ただ相手を灰にするのみだ。

 恋だという自覚はなかった。

 けれども僕が一緒にいる限り彼女を灰にしてしまうなら、僕はひとりで炉に入る。

 そうすればアスリさんが壊れてしまったなんて、もう誰も誤解しない。そしてもう傷つくこともない。

 これはあらぬ翼で空を目指した僕への罰。できるのは、ほどけた運命のリボンがほこりをかぶらぬよう、そっとしまい込むだけ。

 だから神さま、彼女に安息を与えたまえ。




 あれ以来、僕は誰とも話をしなくなった。言葉はバベルの塔、イカロスの翼。僕はしゃべってはいけない存在だった。モノはモノとして、ただ与えられた役目を果たしていればいいのだ。

 コロロンとベルが鳴ったらドアを眺める動作は、すっかり習慣になってしまっている。彼女ではないのだと思い知らされる鈍色の重さにも慣れた。

 慣れていたからこそ、それが彼女だという驚愕は強すぎて、太陽が千倍の明るさになったかと思うほどに世界は白くなった。

「……いらっしゃいませー、うちで不良資産を委託販売してるアスリさん」

 ショップにはルイさんとアスリさんだけ。気心知れた様子のルイさんの挨拶には、少し意地悪な笑いが含まれていた。

「ディッシュくんをそんな風に言わないで。……まだ、ここにいるのね」

 世界が真っ白から爛漫の春色に染まりだす。周りを花の野に変える、彼女の魔法の声は健在だ。その魔法の中に安堵の響きを感じたのは、僕の錯覚だろうか。

 彼女がことん、ことんとヒールを鳴らしてゆっくり近づいてくるにつれ、封印したはずの炉がぐらぐらと煮えはじめる。言葉と一緒に熱も、運命のリボンも全部閉じ込めた炉だ。

 髪型が変わっている。見たことのない服。少し痩せたのではないだろうか。記憶の中にいた彼女との相違点、それらの一つ一つが不在の長さをいちいち突きつけてくる。

 ああでも、黒真珠の艶は見ないあいだに深みを増した。僕に「目が合う」ことを、身をもって教えてくれた瞳だ。しまい込んだはずのリボンがうずきだす。出会った片端を求めてひらひらと舞い上がるリボンを、僕はたぐりよせて引き戻そうと躍起になる。

 そんな僕を見下ろす彼女の頬には、ぎこちない硬さが漂っていた。

「……ルイくんには、しゃべった?」

「ぜーんぜん」

 レジの置かれたテーブルで、ルイさんはだらしなく頬杖をついている。僕とアスリさんの再会を面白がって、遠巻きに見物しているようだ。

「アスリさんが壊しちゃったんじゃないっすかー?」

「そんな……」

 ルイさん、アスリさんをいじめないでください。そう嘆願したくとも、貝を決め込んだ以上はできない。もどかしくとも、足を踏み鳴らすことも許されない。僕はただのソープ・ディッシュに戻ったのだから。

「あのね、ルイくん……今頃分かっても、遅いのかもしれないんだけど」

 珊瑚色の唇が震えている。黒真珠から海があふれだす。彼女の指先は見えない壁に阻まれているかのように、ある一点から動けずにいる。そのひとふれにあずかった日々の、なんと幸せだったことか。

「ディッシュくんはね、初めてしゃべってくれたとき、こう言ったの。年月を重ねて話せるようになったソープ・ディッシュと思ってください、って。だけど、そうじゃなかった……年月を重ねて、心を持ったソープ・ディッシュくんだったの」




「ふーん。だから?」

「だから」

 ルイさんに突き放すように扱われて、彼女の海は勢いを増した。

「ディッシュくんが……身を引いちゃったんだ、って可能性を考えてもみなかったの。だけど分かったら、ここに来ちゃって……」

「あっそーっすか。それで?」

 アスリさんをいじめないでくださいってば! ルイさんは僕がそう叫びたがっているのを百も承知なのだろう。挑発するように薄く笑いながら、僕の出方を窺っている。

 ルイさんはアスリさんに対し、僕という精霊を知らず、僕と話をしたことがないかのように振舞う。その意図を、僕は白い思考で飲み下そうと試みる。

「それで、ディッシュくんを連れ帰りに来たの!」

「アハハッ。アスリさん、アンティークに精霊がいるなんて本気で思ってんすか?」

「いるの!」

 アンティークに精霊がいることを誰より知っているはずのルイさんの、侮蔑に満ちた嘲笑の意味も。

「あーはいはい。いるとして、そいつと恋愛なんてできると思ってるんすか? 相手はモノっすよ? 目に見えない精霊っすよ?」

「でも心を持ってるの!」

 涙に濡れながら必死に言い返すアスリさんの悲愴の理由も。

「ヒトの形でもモノの形でも、中にあるものは一緒だった。わたしはそれに気づいてなかったの。ルイくんもわたしの頭がおかしいって思うのかもしれないけど、それでもいい。みんながありえない恋愛だって思うのかもしれないけど!」

「思わないっすよ?」

 一転して静かに笑うルイさんの突然の変貌ぶり、その瞳の奥の暗い影も。

「でもさあ、アスリさん。ソープ・ディッシュもそう思ってなきゃ、どうしようもないんじゃないの?」




「……僕は」

 言葉を発したのは何日ぶりだったのか。僕の時間は止まったきりだったから不明だ。

「僕は毎朝おはようございますと行ってらっしゃいを言って、毎晩おかえりなさいとおやすみなさいを言って……せっけんを最高の状態で保ちます。いつもアスリさんが気分よく、せっけんを使えるように」

「それだけ?」

 彼女は不安そうに、問い返してきた。

 ――それだけ、だなんて……僕にはそれ以外できません。それ以外ではお役に立てません。これ以上僕に一体、何をお望みですか?

 かつて僕はそう答えた。

「あなたとおしゃべりをして、あなたのために歌を歌って、あなたの涙を水切りして」

「それから?」

 だけど今は、彼女が中にあるものは一緒だと言ってくれた今は。僕は炉を開放して精一杯、運命のリボンの端をひらひらと、その先が結ばれているはずの彼女に向かって振るのだ。

 それは神さまにしか見えないけれど、感じることはできるから。

「これから……よろしくお願いします。アスリさんと、その……等しい存在として」

「ディッシュくん……こちらこそ、よろしくね」

 どこかでウェディング・ベルが鳴っている。違う、あれはティソの懐中時計さんのミニッツ・リピーター。Grandfather's Clockの主人が花嫁を連れてきた時と同じ、二十四回の鐘。

「すまないことをした。私は親友などと口にしながら、結局は一線を引いていたのかもしれんな」

「ま、気にしない。頭の固いジジイにはよくあることっすよ」

「君も、わざわざ一線を引きたがる癖を直したまえ」

 僕の時間が動きだす。彼女と、彼女のせっけんと共に。

 ――それはね、わたしたちにとって、この上なく幸せなことよ。神さまが目に見えない運命のリボンを、ひらひらと振って教えて下さる瞬間なの。

 神さまは僕たちに、決してじかに話をしてはくださらない。正しい答えも、正しい道も、個々に教えてはくださらない。けれど思いもよらないわざをもって、僕たちの心を打たれるのだ。

 「目が合った」のが神のみわざであると、願わくは、僕と彼女で定められますように。




The end

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