6. どれほど恋の炎を燃やしても
またお役目を授かった。お留守番、なるものだ。
「それは何をすればよいものなのでしょう?」
行ってきまーす、お留守番しててねと明るく告げた彼女は、背中をぴたりと止めて、きゅーっとぎこちなく振り返った。
「えーと、普通はわたしの代わりに電話に出るとか来客の応対をするとか、そういうことなんだけど」
僕は恐縮で小さくなってしまいたくなった。彼女の言い遣わしたお役目を果たせない僕の無力さに等しいと思えるだけ、小さく小さく。
「ご期待に添えず申し訳ありません。僕には、できそうも……」
「ううん、キミがそれやってくれちゃったら、びっくりさせちゃうし」
アンティークの精霊は、話しかける相手を慎重に選ぶこととされている。僕は慎重さが足りなくて、最初に彼女へ挨拶した時はへたり込まれてしまったのだった。
「お留守番しててねっていうのは、うん、そうそう、待っててねってことかな。しばらく一人にさせちゃうけど、ちゃんと帰ってくるからね」
何という思いやり。モノというのは待っているのが当たり前で、声などかけてもらわず、気遣いもないのが普通なのに。
僕は間違いなく、世界で一番幸せなソープ・ディッシュだ。
ほかほかとしてきて、受け皿の水滴が瞬時に蒸発しそうに思えた。踊りだしたいけれどそこまで動くことはできないし、第一、彼女の大切なせっけんを落としてしまう。
「はい。行ってらっしゃい、お気をつけて。お帰りをお待ちしてます」
やけに意気込んだ挨拶になったが、彼女がご機嫌なら万事良いのだ。
「うん。デートの後、ルイくんに会うの。せっけん受けくんの話、しておくね」
「……え?」
彼女は僕の困惑に気づかず、軽やかな足取りで行ってしまった。
ルイさんというのは、彼女が僕をお買い上げになったアンティーク・ショップ、オロール・エ・クレピュスキュールのマダムのお孫さんだ。午後になるとよくマダムに代わって店番をなさってた。
話しかけてもらったことはない。ルイさんが話しかけるのは、連れ歩いてたティソの懐中時計さんだけだった。
ルイさんはいつもひどくつまらなそうにしていて、懐中時計さんを除く店中の精霊たちは、ルイさんと進んで関わろうとしなかった。僕は毎日挨拶はしたけれど、あーとかうっすとか、少しばかりぞんざいな返事を頂いただけで終わってしまった。
――彼の悪癖は、誤解されるように自分から故意に仕向けることだ。ご両親の死に納得できずにいるのを、悟られたくないのだ。
ティソの懐中時計さんがマダムにそうこぼすのを、聞くでもなく聞いてしまった覚えがある。ルイさんは配達があるとかで、懐中時計さんに『売約済』の札を挟んで時計展示棚へ押し込んでいった時のことだ。
――せめて『非売品』とすればいいものを、わざわざこうして無神経なふりを装うのだからな。マダム、ルイには同じ年頃の心優しい友人が必要だよ。
アスリさんならきっと、その心優しい友人になってくださるに違いない。
がちゃり、と待ちかねた鍵の開く音がした。
彼女は帰ったらすぐに手を洗って、メイクを落として、お風呂に入って、僕は忙しくなる。せっけんの乾きは完璧、ちょっと身動きして位置を中央に整え直す。気を引き締めつつ、おかえりなさいを言おうと待ち構えていた。
ところが聞こえてきたのはいつもの軽やかなステップではなく、乱雑な足音と男性の声。
「一瞬我慢して立っててくださいよ。靴のストラップ外せないっすよ」
「うー、まっすぐ立てないー」
ルイさんだ。ルイさんにしてはやけに猫なで声だが、あれは確かに。
「ごめんねー、こんなとこまで送ってもらったりして」
「いいっすよ。俺が飲ませちゃったんだし」
「ううん、聞いてくれてありがと。彼にあんな、あんなこと言われるなんて、お、思ってなかっ」
涙声だ!
僕は慌てた。彼女に何かあったのだ。
駆けつけたいけどそこまで機動性のある足じゃないから、せめてにじにじと洗面台の上を移動する。
「どんだけ泣いてもいいっすよ、ここなら俺しかいないんだし」
僕がいます!
と叫ぼうとした瞬間、ふえーんと派手な泣き声が響いてきた。
「せっけん皿くんがしゃべるの、って教えてあげたのに! 精神科で診てもらえだなんて、ひどいっ」
一番寒かった冬の日より、もっと芯から凍るような寒さが足元からぞわりと駆け上がる。
彼と喧嘩したんだ。僕のせいで。彼は精霊の存在を信じてくれなくて、彼女を壊れてると誤解してしまったんだ。
とんでもない、彼女は完璧だ。僕から彼に保証したい。
「それはね、彼の優しさかもしれない。だけどわたしは、信じてもらえなかったのが悲しいの。せっけん皿くんが本当にしゃべるかどうか、が問題なんじゃなくて」
うんうん、そうっすねとルイさんはらしからぬ熱心さで慰めていて――意外だ。ルイさんって、人間の女性には優しいのだろうか。ショップのアンティークたちへの態度とは、ずいぶん違うようだ。
「男の人って通販のお洋服みたい。気に入って取り寄せたのに、手にしてみると思い通りの色じゃない。だからって返品しても、気まずさばかりが残るの」
もどかしい間があった。三秒。五秒。わーっと叫びだしたくなるような沈黙が続いて。
「……なら、俺を試着してみる? アスリさん」
僕はシンクに落下した。
その直後は音の洪水だった。
まずは僕自身がシンクに跳ねる、がらんからん、と硬い音。そして遠くから、チン! チン! と小さなベルの音、聞き覚えのあるあれは、ティソの懐中時計さんのミニッツリピーター?
「やだあ、ルイくんたら、あはは」
彼女の明るい笑い声、それからべしっと何かが叩かれる音。いてっ、とルイさんの苦笑まじりな応答。ぴきぴきと触れたら発火しそうに張り詰めていた場が、それで和らいだ。
アスリさんがルイさんの心優しき友人になるのは、歓迎すべきことだ。理解しているのに、とっさにダイブしてしまった。僕は一体、何をやっているのだろう。
「トイレ借りていいっすか?」
「うん、あっち。コーヒー淹れとくね」
そして僕は、せっけんを放り出しひっくり返った無様な姿をルイさんにさらすことと相成った。
「おまえら、そろって邪魔しやがって」
乱暴な口調とは正反対な慎重さで、ルイさんの手が僕を洗面台に連れ戻す。口元にはおかしそうな笑みを乗せている。
ふと気付いた。そういえばルイさんはアンティークたちにぞんざいな態度をとりはしても、決してぞんざいに扱ったりはしなかった。面倒そうにしつつ、きちんと正しい手入れを施していた。
何を考えてるのか、良く分からない人だ。
「ほら、アンティーク同士、昔語りでもしてたらいいっすよ」
洗面台にティッシュを何枚も重ねた上へ、ティソの懐中時計さんが置かれた。オロール・エ・クレピュスキュールの王に等しい双璧に、僕は緊張してすぐに挨拶もできない。
美麗にして精緻な模様が彫られた金蓋の下から、深々としたため息が漏れた。
「体のいい厄介払いというわけかね、ルイ。不自由な身が嘆かわしい。私は君の父上に、ルイの事は引き受けると誓ったのだ。この有様では親友に顔向けできん」
「ふん……」
バスルームを出て行こうとしていたルイさんは、顔だけ振り返って、低く笑った。
「勘違いしないでくださいよ。俺があんたを、親父から引き受けたんすよ」
ドアは迷いなく閉められてしまい、僕らは暗闇に取り残された。足音が遠ざかり、遠くで陶器の触れ合う音がし始めた。
重く寒々しい沈黙が降りる。
僕はルイさんと、ルイさんのお父上と、ティソの懐中時計さんの間で何があったのか知らない。
だが、彼らがもがいている苦しみだけは感じ取ることができた。運命のリボンが絡まって、身動き取れなくなることもあるのだろうか。
「あの……お久しぶりです、ティソの懐中時計さん」
「うむ」
気を取り直したような、しっかりした返事にほっとする。
「聞いた限りでは、アスリ嬢と好ましい関係を築いているようだな。どうだね」
「はい、それはもう」
ついつい僕は、彼女と出会ってからの日々を熱心に語ってしまった。
それでも彼女が望むなら、きっと僕は塔を建て、空を飛んでしまいます――そう言ったあと、ティソの懐中時計さんは長いこと黙っていた。
僕はただならぬ雰囲気を感じて、それ以上話すのをやめた。
「……ソープ・ディッシュ。君が忠僕であることは疑いの余地がない。だが」
やがて穏やかながらしっかりした口調で切り出された。
僕が彼女のもとを去り、アンティーク・ショップ、オロール・エ・クレピュスキュールに売ってくださいと願い出ることを決めた、あの台詞を。
「アスリ嬢と恋人の諍いの原因は聞こえていたな?」
「はい」
何か恐ろしいことを言われようとしているのだ、と分かった。しんしんと冷えだした空気が、僕を丸ごと動けなくさせる。
「真鍮は亜鉛と銅の合金だ」
「はい」
「煮融かして、また生まれ変わることもできよう」
はいと答える僕の返事は、猟師に撃たれる鴨のように、飛び立つ前に足元へ落ちていくような気がした。
「だが人とモノとは異なる。人間であるアスリ嬢とは、どれほど恋の炎を燃やしても溶け合うことは叶わん。ただ相手を灰にするのみだ」
オロール・エ・クレピュスキュールの店先で。
窓の外の彼女がいない冬景色を眺めながら、僕はぼんやりとその台詞を反芻している。




