5. 太陽に近づいて
闇というのは、陽が名残を惜しむのと同じ速さで、ゆるゆると沈殿するからこそ歓迎される。
だから突然の停電はとても乱暴者のように思えるのだ。
「やー、真っ暗。あっそうそう、どこかにキャンドルあったはず」
すとんと闇に落ちた部屋のほうから、恐る恐るな足音が近づいてくる。ゴン、あいたっ、と悲痛な声もする。
キャンドルといえば、僕のいるシンクの下の棚にしまわれていくのを見たことがある。ここを目指しているならと、僕は足をかたこと鳴らして場所を知らせた。
「きゃーっ! あ……せっけん置きくん? び、びっくりしたっ」
ところが怖がらせてしまったようだ。
「ごめんなさい、失礼しました」
闇で無闇に音を立ててはならない、と僕のアスリさん不文憲法に追加する。
「えーっと、これ何だろ」
モノの位置関係を把握しようとしているらしく、彼女の手がぺたぺたとシンクの周辺を探っている。そのひと触れにあずかるために、暗闇のどさくさにまぎれて移動してしまいたい。
だけど哀しいかな、僕は真鍮だからかたこと音を立てて、また彼女を怖がらせてしまうに違いないのだ。
僕は不埒な願望を、最新の不文憲法でよいしょと押しやった。
がしゃっ。
まるでそのタイミングに合わせたみたいだった。硬くて鋭くて、聞いたこちらの細い部分まで壊れてしまうような、陶磁器の割れる音がしたのは。
キャンドルがともされた瞬間、炎の反射によるものではない揺れが彼女の瞳を支配した。
「やだ、どうしよう」
僕はいつも不思議に思う。人間は壊してしまったモノを、とにかく急いで合わせてみたり、はめなおしてみたりするのだ。急いだって、壊れたモノは絶対元には戻らない。
彼女も慌てて陶片をつないでみているが、もちろんそれらは一つになったりしない。
寸断されてしまった陶片のデザインには見覚えがあった。クリスマスにプレゼントされた、イタリア製の陶器だ。僕と同じ洗面台に置かれているけれど、見るとなぜか、どこかがざわついて仕方ないから、なるべく見ないようにしていた小物入れ。
「どうしよう……」
また別の揺れが彼女の瞳を満たした。それは下まつげでは支えきれず、たっぷりと溢れて頬の上を伝い落ちた。
涙だと気づいて、僕はすっかり動転した。がたがたっと騒がしい音を立てて、僕はシンクに転がり落ちる。小さな小さな傷がついてしまった。だが、それどころではない。
彼女を、水切りしなきゃ!
歓喜、悲嘆、悔恨、苦痛、感動、哀愁、惜別、人間の涙には原因がたくさんあって、人間同士でも正しく判別できないこともあるという。流したほうがよい涙もあるのだそうだ。
けれど彼女の黒真珠はすっかり曇ってしまっていて、その涙は窓ガラスを叩く強い雨みたいに僕を打ちつける。停電というものは嵐のあとに来るものなのに、この嵐は停電が呼んだ。その冷たさは凍える冬の寒さより身にしみるよう。
これが流していい涙のはずがない。
彼女のせっけんがびしょびしょだと心配になる。だが彼女が涙に濡れているのは、比較する気にもならないくらい、僕にとって耐えがたい恐慌だった。
「どうしよう、割っちゃった。彼がくれたものなのに割っちゃった」
彼女のふるふるとした声は、ハンマーのように僕をがっつんがっつん殴る。
「怒られちゃう。忙しいとこ、わざわざ届けてくれたのに」
「大丈夫です、アスリさんっ。モノが壊れるのは残念なことです。けれど人は、みずからを修理できるというすばらしい技術を与えられているではありませんか」
シンクに落ちたのは過ちだった。洗面ボウルの曲面が壁のようにそそり立ち、バスルームの床に膝をつく彼女が見えなくなってしまっていたのだ。
「彼も残念がって、もしあなたを咎め、傷つけてしまったとしても……それはモノと違って、きっとあなたと彼できれいに修復できるものですよね?」
かたかた暴れてみても、ホウロウに真鍮の足は滑るばかり。僕の言葉まで、こんな風に空回りしていませんように。
「僕は……僕は何のお役にも立てないけれど、彼となら、人間同士なのですから」
金たわしでこすられたなら、こんな風にギシャギシャと心地悪く痛むのだろう。
――毎朝おはようございますと行ってらっしゃいを言って、毎晩おかえりなさいとおやすみなさいを言って、僕はあなたのためにせっけんを最高の状態で保ちます。いつもあなたが気分よく、せっけんを使えるように。
そうするのが僕の最大限で、それ以外ではお役に立てないと思っていた。だけど彼女はおしゃべりや、歌うという役目も与えてくれた。
それはこなしている、一生懸命やっているはずだ。なのに今、自分は役立たずだという気持ちばかりが暴風のように押し寄せる。
僕は何の役に立ちたいんだろう。僕は彼女の何になりたいんだろう。
せっけんの水切りより、おしゃべりより、歌より彼女を喜ばせてあげられる何かを、僕は切望しているらしいのだ。
これが、くやしいという感情なのだろうか。
「小物入れの修繕は、マダムに相談してみたらいかがでしょう?」
「……マダムって?」
洗面ボウルのふちから、ひょこっと彼女の顔が覗いた。灯りといえばキャンドル一本だけの暗さだったけれど、まるで待ち焦がれた朝陽が昇ったみたいだった。
「僕をお買い上げくださったアンティーク・ショップ、オロール・エ・クレピュスキュールの店主です。ショップに修繕をほどこした陶磁器があったのを覚えてます。良い修理法をご存知かもしれません」
「……そうね。わたし、瞬間接着剤使おうとすると、修理したいものより先に自分の指先がくっついちゃうの」
つまり、ぶきよ……こほん、指先が大らかでいらっしゃる、と。
「うん、お店に行ってみる。ありがとう、せっけん置きくん」
初めて天気雨というものを窓越しに見たとき、とてもきれいだと思ったのを覚えている。陽光を含んだ雨粒は豪華なシャンデリアを空にかけたみたいにまぶしかった。
彼女がほたっと微笑むさまは、僕にその天気雨を連想させた。
ひょっとして僕は、水切りすることができたんだろうか? せっけんだけじゃなくて、彼女の瞳にかかる雨雲を流してしまえたんだろうか?
僕は彼女にとって、ソープ・ディッシュ以上の何かになれたんだろうか?
急にそわそわと、わくわくと、今せっけんの泡につかまったら空まで飛んで行けるんじゃないかって気がしはじめる。雨粒にも邪魔されることなく、輝く太陽のその膝元へ。
「よしっ、そうとなったら今から行ってきます!」
ぴしっ。
「きゃーっ、破片踏んじゃった!」
僕の太陽はとてもそそっかし……こほん、小鳥のように気ぜわしい。
どこが欠けると、そのぶん別のどこが育つ。それは生物だけの機能だと思っていた。モノはどんなに修繕を重ねても、結局は段階的に壊れていくだけだと。
でも僕は今日、小さな傷をこさえてしまったけれど、補って余りあるくらい進化した気がするのだ。
そんな風に思うのは、モノである僕にとってバベルの塔だろうか。
旧約聖書の創世記。人々は天に達する塔を建設しようとした。神さまは人々の言語をばらばらにし、彼らの意思疎通を断ち、目的を果たさせなかったという。
人に近づいたなんて思うのは、不遜な慢心でしょうか。
太陽に近づいたら、イカロスのように海へ落とされてしまうでしょうか。
それでも彼女が望むなら、きっと僕は塔を建て、空を飛んでしまいます。




