4. あやふやな存在
ブルーになる、とはこんなふうに気だるく重たくなることの比喩なんだろうか。
もちろん僕はぴかりと光る真鍮色だし、金属ゆえに最初から重い。ブルーになるという表現は青色を授かったモノに対して失礼にあたってしまうから、使わずにいたい。
しかしブルーなのだ。
今日はニューイヤーイヴ。彼女は朝からご機嫌で、僕もそれを喜んでいた。なのにご機嫌の理由が彼の来訪と聞くと、急に世界がくすんでしまったような気がして。
しかもニューイヤーイヴ。その習わしをどこかで教わったことがある。人は真夜中にカウントダウンというものをして、夫婦同士恋人同士友人同士、口づけを交わすものなのだと。
自分がドールや彫刻だったらなんて思ってみたこともなかったが、今宵だけは姿を借りたかった。彼らは唇を持っているから、その祝福を受けられる。
彼女は午後じゅうキッチンで、ごめんなさい、失礼ながらあまり慣れているようには見受けられない要領で料理というのをしていた。がっしゃーんと陶器の割れる音がしたときは一瞬、僕が丈夫な真鍮でよかったと思い直したっけ。アーメン。
もちろん僕は食べるということがないから、彼女は彼のために格闘を重ねているに違いないのだ。
彼女の今日という日は、彼のためにあるのだ。彼女の祝福を受けるのは彼なのだ。
これをブルーと言わずしてなんと言おう。
彼が来る前に彼女に頼んで、バスルームに戻してもらおう。このままリビングテーブルにいたら、もしかして彼女と彼が祝福を交わすのを覗き見る形になってしまうのではないか。
あの羽のように柔らかそうなまつげが伏せられ、淡い珊瑚色の唇が彼を迎え入れるなど……考えただけでねじれるはずのない真鍮の受け皿がねじれてしまいそうだ。
すでにねじれていないか、ついしげしげと確認した。
「うん、分かった。仕事がんばってね」
せっけんのラッピングを解いたときに一斉に放たれる、濃縮されたフレグランス。彼女の声は、彼女の身体で温まった感情がそうやって弾けるみたいに、周りを花の野に変えてしまうのだが。
「はー……」
泣き出しそうなため息の主に合わせて、花々はとたんに頭を垂れてしおれていく。
僕は静かになった携帯電話なるものを名残惜しそうに見つめている彼女を見つめていた。
「彼、今日も忙しくなっちゃったんだって」
困ったように笑う口元が明らかに無理している。クリスマスはほんのわずかな再会だったから今回こそはって期待してたのを、僕は知っている。
彼が来ないのは僕にとってブルーを吹き飛ばす事柄であるはずなのに、彼女のそんな顔を見てしまったら、もっともっとねじれてしまいそうになった。悲しみは精神を雑巾にしてしまう。
僕でよければ彼とせっけんの代わりに料理を水切りします、そう提案したら彼女は元気を取り戻してくれるのか。判断できない。
「ううん、無理言っちゃだめ。彼だってこんな残業ばっかりじゃ、何のために働いてるか分からないなんてこぼしてたし」
みずからに言い含めているらしい彼女の言葉を、僕は理解できなかった。
「彼は、何の目的で存在しているのか、ご自分でご存知ないのですか?」
繰り返される早い瞬きを数えていて、二桁に達したころ、ようやく彼女の唇が動いた。
「人間って、みんなそれを探して迷ってるの」
「あなたもですか?」
「そ……そうかな」
何かの目的のために造られるモノと違って、人間は自分で自分を定義しなければいけないらしい。どんな心持ちなんだろうと想像してみる。彼女もそうだと言うのなら、きちんと知りたいから。
「僕もショップにいるあいだは誰のものでもなくて、落ち着かない気持ちでした。そういう心もとなさでしょうか」
「所有されたいってわけじゃないの。あ、でもマスローの欲求階層における社会的欲求って、何かに属していたいってことよね。恋人にいて欲しいっていうのは所有されたい欲求の一形態なのかな。うーん」
彼女は肘をついた両手で頬杖して、料理のときよりよっぽど真剣そうな顔つきになる。
「でもそうだとしたらわたしは今、彼にすっぽかされてさびしく新年を迎えるアスリってことになっちゃうのね。そんなの、マリーと付き合ってたピエールみたいじゃないの」
早口すぎてついていけない。待ってくださいとお願いする間もなく続けられてしまう。
「そうよね。彼がいないからって新年が来ないわけじゃないもの。わたしはわたしのために新年を迎えるの。あ、でもわたしはわたしのためって言ってもそれは、存在の目的とはまた違う話だし」
うー、もう! と彼女が髪をくしゃくしゃとかきまわす。ああ、レディをこんな乱れた姿にさせるとは、大変なことをしてしまった。
「おっ落ち着いてください、失礼しました、僕は失言をしたようです」
「違うの、キミの言うことは哲学的だったの。さすがフランス製よね」
フランス製であることとの関連性は見出せないのだが、これ以上の失言をしてはたまらない。遠慮がちにはいと答えた。
「パーティメニューって、そういえばお酒にも合うんだった! 二人分あるから、二人分飲めちゃう! あはははっ」
彼女の頬に乗る朱はずいぶんと鮮やかになって、反比例するように黒真珠の瞳の輝きはどんどん失われていっているようだ。
何がそれほど可笑しいのか理解に苦しむようなことでずっと笑っていたり、話し方は妙に語尾が引っ張られているようだったり。
そういえばティソの懐中時計さんに、酔った人間というものについて延々と嘆かれたことがあったっけ。もしかしてこれは、その嘆かわしい状態なのではないだろうか。
僕は青くなった。
ブルーになるのと青くなるのと、色の変化は一緒なのに意味が違うらしい。心の底がいきなりスカーッと抜け落ちてしまうような感覚を、青くなるとたとえるのだそうだ。
人間は青くなったり赤くなったり、色彩の変化に富んでいる。せいぜい黒ずむくらいしかない真鍮の僕には新鮮だったりするのだが、今は感心している場合ではない。
彼女は酔っている。
どうすれば直るのだろうか。手入れが必要なんだろうか。オーバーホールだったらどうしよう。
「アスリさん、お気を確かに。僕は工場でもお供しますから、今すぐ修理を」
「あっ、カウントダウンが始まった! じゅーう、きゅーう、はーち、なーな」
ああ、彼女は狂って過去にさかのぼる時計になってしまった。どうしよう。
「ろーく、ごー、よん、さん」
神さま、神さま、助けてください。彼女の修理に煮融かした真鍮が必要なら、僕がそれになります。だから、どうか。
「にー、いーち……ハッピーニューイヤー!」
淡い珊瑚色の唇が近づいた。僕のはしっこに、僕の固く冷たい真鍮の身体とはあまりにかけ離れた柔らかさと温もりが触れてきた。
「今年もよろしくね、ソープ・ディッシュくん」
とんでもなく近くで楽しそうに告げる彼女の声が本物だったのかどうか、そのあとの記憶がすっかり曖昧だ。きっと僕は彼女の声でできた花園を、一日中さまよっていたんだと思う。
あれが天国というものに違いない。
僕が頼りなくそこをさまよっているあいだに、彼女は酔いを自己修理してしまったらしい。いつの間にか地上に降りていることに気づいたら、いつもの彼女がいた。時折こめかみに指を当てて痛そうにしていたから、傷が残ってしまったのかもしれないが、それも一日で修復できたらしい。
僕は安堵のあまりに、真鍮が胴と亜鉛に分解していってしまいそうな気がした。
それにしても、あれほど劇的に自己修繕できるとは、人間ってすごい。
だが芸術の創造、精緻な細工、複雑な機構、さまざまなモノを造りだせるのに、どうして人間は自分で自分の目的が定義できずにいるのか。理解しがたい謎だ。
「えっ、やっとお休みもらえたの? うん、今から行く!」
携帯電話を置くと、彼女はいそいそと洋服を選び始めた。もしかしてあれはデートのお誘いという嘆かわしい……いや、いやいや、喜ばしき……うーん。
彼女にとって僕が歌ってしゃべれてアンティークなソープ・ディッシュなら、ついていきたいなんて考えてはいけないんだろう。僕の居場所はバスルームのはず、そうだったはず。
僕はこうして彼女に価値も目的も決めてもらえて、迷わずに済む。彼女や人間たちが迷うのは、自分たちで決めようとするからかもしれない。
僕に対して彼女がそうであるように、人間に対してその権利を持っているのはきっと、神さまだけなのだから。




