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Soap Dish  作者: シトラチネ
Soap Dish
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3. Grandfather's Clock

 ふんふんふん、と半透明のドアの向こうから、シャワーの水音と一緒に彼女の鼻歌が聴こえてくる。

 人間は気分がいいとそうするものなんだそうだ。だから僕は彼女の鼻歌が聴こえてくると、じいっとそれに集中する。耳を傾ける、と言われるらしい動作。彼女が気分よく歌う歌はきっと、彼女の好きな歌だから。

 アンティーク・ショップという場所は無音か、とても控えめにクラシックがかかっているものだ。おかげで僕も少しは音楽を知っている。だけど彼女が口ずさむのは僕の知らない歌ばかりで、その度にがっかりしたり焦ったりしてしまう。

 僕が彼女について詳しいのはまだ、せっけんの好みくらい。音楽はやっと見つけた共通の話題の糸口なのだ。

 だから初めて既知のメロディをキャッチした時、僕はここぞとばかりに唱和した。

「わあ、せっけん受けくんが歌ってる。歌ってしゃべれるせっけん受けなんだね」

 身体にバスタオルを巻いた彼女が出てきて、ご機嫌に弾む声で喜んでくれた。声がかれるということのない僕は、請われるままに歌い続ける。

 突然、彼女がくしゃみをした。

「ごめんなさい。お風呂を出てすぐに服を着ないと、風邪になるんでしたね」

 壊れる限り失われることのないモノ、それもアンティークともなると、つい時間の経過というものが人間と違う事実を忘れがちになる。

 だから持ち主と共に時を刻み、時を終わった時計の歌――このGrandfather's Clockは、僕の心を聖歌よりも優しく震わせる。

 モノは人から人へと渡り歩くのが当然だと思っていた僕なのに、今はこの時計に憧れを抱き始めてる。これは新たなる変化だ。

 アンティークは歳月による渋みと味わい、時に褪せさえも増すことは容認されても、新しい変化というものは歓迎されない。時が止まったように造られたままであること、それがアンティークの醍醐味なのだと人は言う。

 彼女と出会ってからの僕は毎日のように新たな変化を受け入れていて、アンティークとしてはあるまじき姿になってしまったかもしれない。

 だけど僕は気にしない。僕の価値は僕でなく、他人でなく、彼女が決めるものだから。所有者たる彼女が喜んでくれるなら、僕はアンティークとしての価値など惜しげなく手放そう。




「ねえ、さっき歌ってたのって、『大きな古時計』の英語の歌詞よね」

 着替えてきた彼女が言う。彼女は日本語で歌っていたつもりらしいが、鼻歌だったから気づかなかった。

 日本語の歌詞を聞かせてくださいとお願いしたのは、本当にそれを知りたかったからというより、彼女の歌声が降り注ぐ恩寵を感じていたかったからなのだけれど。

「原詩と少し違うんですね。おじいさんは百歳じゃなくて、九十歳なんです」

「へえ、そうなの! 物知りねー、さすがアンティーク」

 アンティークとしての知識を買ってもらえるなら、僕はずっとアンティークでいよう。

「二番でおじいさんに花嫁が来たとき、時計は嬉しくってつい二十四回も鐘を鳴らしちゃったんです」

「あはは、ありえないのにね! 可愛い」

 僕がその時計だったら、彼女が花婿を連れてきた瞬間に永遠に止まっちゃうかもしれない。

「それから原詩の三番が邦訳では省かれてしまってます。とてもいいところなのに、残念です」

「どんな歌詞?」

「ええとですね」

 いざ問われると恥ずかしくなってきて、僕はかたことと足を鳴らす。

「おじいさんは言うんです。こんな忠実な召使いは雇おうったって見つからない。時間を無駄遣いしないこの召使いがひとつだけ望むことといえば、週の終わりにねじを巻くことだけ……」

 尻すぼみになった。

 頭があったらうなだれたい。僕は彼女のものさしでの時間経過を忘れ、無駄遣いさせてしまったばかりなのだ。

「ごめんなさい。湯上りに引き止めたりして。それにこれから、お客さんがいらっしゃるんでしたね」

「いいの。わたしが知りたかったんだから気にしないで、忠実なせっけん受けくん」

 彼女の何気ない一言は、聖書の一節よりも僕には福音となる。




 僕が時計なら。

 お客さんがあの男性だと分かった瞬間から、十分は針を止めていただろう。

「ケーキ買ってきてくれたの? わあ、ありがとう」

 また贈り物をしているようだ。僕には決して出来ないことで彼女をやすやすと喜ばせている男性が心底うらやましい。

 彼女の時間を無駄遣いさせて、何も持たないことをひがんだりして、僕は分不相応な罪深いソープ・ディッシュだ。そのうえ神さまに許しを請うためにひざまずく膝も、祈り合わせる掌もない。

「紅茶いれとくから、手を洗ってきて」

「はいはい。せっけんって、コレ?」

 思考の沼から引き戻されると、男性に見下ろされていた。彼女と同じ黒い瞳なのに、木炭か墨のようだ。ビスクドールの方がはるかに澄んだ目をしている。

 それがなぜかと考えて、男性の瞳にあるのが侮蔑だと分かった瞬間、それを裏付けるような言葉が襲いかかってきた。

「この古くさい入れもんは何だよ?」

 アンティークです! と叫びそうになるのを何とか我慢した。世の中にはアンティークを、しょせん中古品と断じる人もいて、それは間違ってはいないのだ。

 僕の価値は彼女が決めるもの。この男性に、ふ、古くさいとこきおろされようと、き、気にしてはならないのだ。

「ひどーい。アンティークって言ってよ」

 彼女の憮然とした答えに、僕は大いに溜飲を下げる。対する男性はふうんと気のない返事をすると、わしっとせっけんをつかんだ。

 ああ、香りをかぐこともしないで、それは南フランスのラヴェンダーなんですよ? ああ、そんなびっしょびしょのまま戻さないでください、ふやけてしまったらどうするんです? そんな、切れが悪いって、それが肌に優しい証拠なのにお分かりにならないのですか?

 Grandfather's Clockがすばらしいのは、モノが人に忠実なだけでなくて、その忠義を人が理解し感謝してくれているところだ。日本語訳では省かれてしまっている三番がまさに、おじいさんから時計への賞賛なのだ。

 僕は男性が豪快に跳ね飛ばした水滴にまみれながら、濡れそぼれたせっけんを抱えた。

 僕の忠義はしゃべることでも歌うことでもなくてまず、彼女のためにせっけんをさらりと、清潔に保つことだから。そうせずして賞賛など、欲する資格もない。

 決して針を遅らせず、たとえ二十四回も鐘を鳴らしちゃうとしても、彼女の喜びを喜ぶことなのだ。




 ふんふんふん、と半透明のドアの向こうから、シャワーの水音と一緒に彼女の歌が聴こえてくる。

 いつものように集中を傾けていた僕はふと、それが聞き覚えのある曲の、聞き覚えがある歌詞であることに気づいた。

 Grandfather's Clock。日本語の大きな古時計でなく、英語の、四番まである歌詞。

 あれきり教えていないのに、彼女はいつのまに覚えたのだろう。

 ふと歌声が途切れた。そして直前のメロディが繰り返される。また同じところで詰まった。

 歌詞が思い出せないのだろうか。僕の好きな三番の、召使いのくだり。

 かたこと足を鳴らして応援してみたけど、水音にかき消されて、彼女には届かないみたいだ。調子の悪いレコードみたいに、彼女はくるくるとループしてしまっている。

 がちゃりとドアが半分だけ開いて、たっぷりの湯気と一緒に彼女の顔が覗いた。

「この続き、何だったっけ? 歌って」

 僕はせっけんの影から、そっと彼女を窺う。

「歌ってもいいんですか?」

「だって、歌ってしゃべれるせっけん受けくんでしょ。そこで歌っててね、こっちにも聴こえるから」

 ぱたん、と半透明のドアが閉じて、戻り損ねた湯気がゆらゆら困りながら溶けていく。それをぼんやり眺めているあいだに、彼女のレコードが回り始めた。

 僕は歌う。

 彼女にとって僕が歌ってしゃべれる、アンティークのソープ・ディッシュであるなら。僕は彼女の聖歌隊になろう。聖書を語り聞かせる神父さまのように、与えることのできる言葉を惜しむまい。

 せっけんの水切りをしながらだって、それはできるのだから。

 おじいさんと時計の絆にあずかれるよう祈りを込めて、僕は歌い続けるのだ。


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