2. 名前がないのは
慣れないダイニングテーブルの上で。僕はキッチンとの往復を繰り返す彼女を、忠実に視線で追っていた。バスルームを住処とするソープ・ディッシュにとっては、そうそうお目にかかれる光景じゃないから。
彼女がテーブルに近づくたび、僕の真鍮の身体に黒髪が映りこむ。オニキスみたいにどこまでも深黒で、朝の日差しを柔らかく丸めて輝いてる。
冷たいとも言われがちな真鍮の光が、彼女によって中和されるよう。
カフェオレボウルにクロワッサンをのせた皿、陶器でできたにわとりのエッグスタンド。ランチョンマットに手際よく、そして楽しそうに、並べるというよりは展示するように、彼女は朝食を置いていく。
「フランス製のキミと食べるんだから、フランスっぽくね。ふふ、実はさっきまで、食欲なんて全然なかったんだけど」
人間にとって基本となるのは衣食住というものだそうで、よって、アンティークにもそれに関係した品が圧倒的に多い。僕は住に属するのだけれど、食にまで関わることになるとは思わなかった。
精霊となると、いや彼女といると、驚かされることばかり。
「ねえ、キミ。名前考えようか。しゃべるせっけん皿くん、じゃ、まだるっこしいもの」
もし人間の身体を持っていたら、僕はのけぞったことだろう。
名前。彼女が意味しているのは固有名詞のことだ。造られてこのかた、僕はそんなものとさっぱり縁がなかった。
「そうですね……その前にあなたは、呪われたアクセサリーの話をご所望でしたね?」
僕に名前をつけたいと言う彼女に、どうかうまく伝わりますように。
ホープダイヤをご存知でしょうか。
訊ねてみると彼女はクロワッサンをかじりながら、聞き覚えがあるようなないような、と曖昧な返事をした。
タイタニックという映画で、ヒロインが碧洋のハートと呼ばれる宝石を身に着けていたそうですね。そのモデルとなったブルーダイヤです、と加えると、ぱっと笑顔になった。
女性というものはつくづく、宝石がお好きなようだ。僕にとってはブルーダイヤより彼女のほうが、よっぽど見飽きないというのに。
ホープダイヤは所有者や身に着けた者に災いをもたらすという噂で、呪いのブルーダイヤと言われる。マリー・アントワネット、ホープダイヤの名の由来となった実業家ホープ、マリリン・モンロー、その犠牲者は枚挙に暇がない。
「アンティークの世界で固有名詞を持つということは、いわくつきであるということなんです」
カフェオレをすすりながら、彼女はうーんと唸った。
レディは肘をついてカップをすすったりしてはいけないものらしいのだけれど、見なかったことにする。きっとこれが、目をつぶると表現されるマナーなのだ。
「でもアンティークって、そのいわくつきが面白いんじゃない?」
「前の所有者の名を冠する品物が嬉しいのですか? たとえばもしあなたの……恋人の男性に、以前付き合っていた女性の名前がくっついていたらどう思われるでしょう。マリーの恋人だったピエール、みたいに」
彼女の下唇が、いーっと歪んだ。
「いや。それはいや」
「僕はいわくも何もない、ただのソープ・ディッシュです。あなたには、キミと呼びかけられれば通じます。名前など取り立てて必要ありませんよね?」
ピンポーンというその音は、来客を知らせるノック代わりのものらしい。
そうよね、名前なんて要らないわね、と彼女が頷いてくれていたところだというのに、無粋なタイミングだ。
「えーっ、どうしたの。仕事で会えないって言ってたじゃない」
「これから出張なんだけどさ。予定の新幹線の前に、ちょっと時間あったから」
彼女のものとは違う、どすどすと上品さを知らない足音。そして男性の声が近づいてくる。
「はい、プレゼント」
「わあ、ありがとう」
真鍮は放置されると黒ずんでくる。僕は一瞬にして十年の時が経ったみたいに、世界が真っ黒になった気がした。
彼女は、自分へのクリスマス・プレゼントに僕を選んだと言ってくれたのに。
桜貝の色に頬を染めて、彼女は嬉しそうに包みを解いている。手というものがあれば僕は彼女の頬を両手で挟んで、黒真珠の瞳をこちらに向かせるだろう。
「メリー・クリスマス、アスリ」
耐腐食性を誇る真鍮だけど、僕は水に浸かったままのせっけんみたいに、ぐずぐずに崩れてしまうかと思った。
僕の名前は不要だと言った。でも彼女に名前があるのなら、それは彼女から聞きたかった。
見ず知らずの男性が彼女に祝福を与える、その言葉を盗み聞きするような、こんな形で知りたくはなかった。
「ソープ・ディスペンサー?」
「そう。小物入れとセットで。おまえ好きだろ、こういう陶器とか」
僕はもう、僕はもう、たぎる釜に身投げしてとろけてしまおうかと思った。
話に聞いたことがある、液体せっけん。固形せっけんに代わって広まっていて、それを保つためには僕のようなソープ・ディッシュでなく、ソープ・ディスペンサーというものを使うのだそうだ。
よりによって彼女は、恋人からのクリスマス・プレゼントに、ソープ・ディスペンサーを受け取ったのだ。
僕は用無しになった。
かたかたと振動音がして、若い男性があたりを見回す。
「あれ? 地震?」
「揺れてないけど……あ」
彼女が僕を見た。やっと僕を見てくれた。
そのときようやく、かたかたというのが、僕の小さな足がテーブルにぶつかる音だと知った。
「ヤバ、時間ないんだ。もう行くよ」
おろおろと、恋人からのプレゼントと僕とを交互に見回す彼女に、男性は気付きもしない。僕だったら彼女を見つめ続けて、その一挙手一投足を逃さない。だけど、それももう終わり。
ばたばたと慌しく男性は帰っていく。玄関のドアが閉まり彼女が駆け戻ってくるまで、僕はずっとかたかたと震えていた。
彼女はテーブルに両手をついて、思いっきり近くまで鼻を寄せてきた。
「せっけん皿くん、怒ってる?」
「いいえ」
それは本当だった。
どう言えばいいのか、自分にもその正体が分からぬものを、どう伝えればいいというのか。
僕は今日を限りに彼女のせっけんを預かることはないのかと思うと、中央からめきりと折れてしまいそうに身体が痛んだ。
これまで僕は、数々の手を経てきた。それまでの所有者の手を離れるとき、さびしさは感じても、こんな痛みはなかった。それがモノとして当然の処遇だと思っていた。
なのにこの瞬間、潰されそうに苦しいのはなぜだろう。彼女とは「目が合った」からだろうか。
いま僕の運命のリボンを振ったら、その先はどこにも続かない、はたはたと虚しい感触がするのだろうか。とてもそれを確認してみる勇気など湧いてこない。
「あのね、あの人、わたしが敏感肌だってまだ知らないの。液体せっけんはすぐに手荒れしちゃうから、使わないの」
ソープ・ディッシュである僕はその特性上、せっけんについて少しは知っている。
彼女が使うプロヴァンス産のせっけんは天然素材のみが使われていて、とても優しい。そのぶんデリケートで、水切りをするソープ・ディッシュは必需品なのだ。
「だからソープ・ディスペンサーはいらないの。でも彼には内緒」
その言葉を証明してみせるように、彼女は陶器のソープ・ディスペンサーを箱に戻した。それからにっこりと笑ってくれる。
ああ、せっけんより大粒のダイヤだってきっと、彼女の笑みほど眩しくは輝けない。
「わたしのせっけんをお願いするのは、キミだけだからね」
「はい」
いつの間にか、かたかたいう音も震えも止まっていた。それどころかテーブルの存在が分からず、まるでせっけんの泡のようにふわふわと、身体が浮き始めた気がした。
重量のある真鍮なんだから、そんなはずはない。だけどどうしたって、そんな感じなのだ。
「任せてください」
僕が張り切ったところで、せっけんの水切りが早くなるわけでも、せっけんの質が良くなるわけでもない。それでも僕は張り切って、彼女の肌を傷めない彼女の特別なせっけんを、もう一度しっかりとホールドした。
神さま、あなたには名前がない。それはあなたが唯一絶対の存在だからです。
僕にも名前がない。それがいわくつきでないからではなく、どうか、彼女にとって唯一だからでありますように。




