4. 金鎖
4. 金鎖 純白でいられんのは、見てるあいだだけなのさ
黙って脱け出しちまおうって算段は、懐中時計を収めた手のひらの向こうに見えたチェーンベルトで、失敗に終わったのを悟った。
レザーパンツと財布をつないでいるごっついチェーンは、カウントダウン・パーティーの幹事の持ちもんだ。無造作につけてあるシルバーのクロスチャーム。これはアンティークなのと囁きつつすり寄られ、以来半径五メートルには近づくまいと決めてたってのに。
うかつだ。
「あらあ? ルイちゃん、帰っちゃうのお? カウントダウンはこれからなのよ、お祝いしましょうよ」
男は今のところ管轄外だ。案の定尻に伸びてきた手を払いのける。
「あいにく、喪中なんでね」
「んまっ、その言い訳気に入ったわ。でもどうせ女のところへ行くんでしょ」
「まあな」
「きいっ、くやしい。ルイちゃんを落とせなかったのが唯一、今年のやり残しよ。来年こそ見てらっしゃい」
決めポーズのつもりらしい斜め目線が絡んできた。眉やら耳やら唇やら、あちこちのボディピアスが好戦的にギラギラ光る。
勘弁してくれ。
男の俺から見てもこいつはいい男なのだが、ターゲットにされんのはごめんだ。脇をすり抜けようとしたものの、がしりと腕をつかまれてしまう。誇張するような服を着ているがその筋肉はダテじゃないようで、ふりほどけない。
「懐中時計持って遁走なんて、アリスの白うさぎみたいね。せめて来年の抱負くらい教えてってちょうだいな」
抱負ってのは、自分の中に抱き、負っているからこそ抱負なのさ。口から外へ出したとたんに酸化して、陳腐に、上っ面だけになる気がするのは俺だけか。
だが、ここでぐずぐず引き止められたくもない。諦めて、ため息に乗せて教えてやった。
「プリンス・アルバート」
男は、きゃっなんて喜んで身をくねらせている。その隙に腕の自由を奪還した。
「アソコへのピアスね? いいわあ、おそろいにしない? それとも、食べさせてくれる?」
「金無垢ならね」
どうにかクラブを後にして、女のもとへと向かう。
「アルバート公の御名で第一に導かれる答えが男性器のピアスとは、何たることだ。ヴィクトリア女王陛下の夫君であり従弟であると知る者は、この国にはいないのかね」
ポケットから暗然とした悲嘆を漏らすのは言わずもがな、ティソの懐中時計だ。
「懐中時計の鎖のスタイルだなんて教えてるあいだに襲われたら、たまんねっすよ」
こいつに教わらなければ俺だって、アルバートなんぞ知らないまま一生を終えただろう。別にそれで困りやしないんだ。
だけどあの事件が起きて、こいつがしゃべりだして、鎖を追いかけることになって。とてもじゃねえが今年は、連中とお祭り騒ぎする気分じゃないのさ。
「あの男は信じようともしていなかったが……先刻の君の言葉は真実だった。礼を言おう」
このティソの懐中時計には鎖がない。通常、懐中時計ってもんは鎖をつなぎ、ベストのボタンホールやへりに留めて落下を防ぐ。
だがこいつは決して、鎖につながれようとしないんだ。ただ一本を除いてはね。だからそのままジーンズのポケットに突っ込まれても、渋々我慢してやがるんだ。
ロシアの貴族はこの時計のためにアルバートタイプの特別な鎖を作らせた。フォブ、ってのは印籠の根付みたいなもんだな、そこには家紋をあしらい、でかい宝石を埋め込んだ金無垢だったらしいぜ。
ところが貴族が没落して懐中時計を手放すとき、金鎖と一緒じゃあまりに値が張るもんだから、別々に売り払っちまった。以来このティソの懐中時計は分かたれた金鎖を我が家族と呼んで、探し続けているんだとさ。
ま、そうは言っても手も足もない懐中時計に出来ることなんて、人のいいアンティーク・ショップ経営者でもつかまえて、自分の代わりに探させることくらいなもんだ。それが運悪くうちの両親だったってわけ。
「別に礼を言う必要なんてないっす。俺は親父が命の瀬戸際にかばったもんを粗末にしたせいで、化けて出てこられるのが面倒なだけっすからね」
「私の金鎖が、君と君の父親たる私の親友を結び付けているなら――繋索を使命とする鎖として、それに勝る光栄はあるまい」
女の部屋には明かりがついていた。懐中時計を引っ張り出して時刻を確認する。
十二時前だ、間に合った。
ちらちら雪が降り始めていた。雪ってのは幻想みたいなもんだ。素手でさわったとたんにぐずぐずに溶けてまとわりつくから、払いのけたくなっちまう。女ってのも、たいていはそうだ。
純白でいられんのは、見てるあいだだけなのさ。
そういや不思議の国のアリスに出てきた白うさぎ。挿絵じゃ使ってんのはアルバート鎖だ、なんて言われてんな。
「懐中時計の鎖にアルバート公の名を与え、それをこぞって使いたがったのは、洒落者のプリンスご愛用のスタイルだったから――というのは建前のように思うのだよ、ルイ」
「そうっすか。じゃあ、本音は?」
部屋の鍵は持ってる。それを鍵穴に差し込んだ。
「世の紳士たちが、ヴィクトリア女王陛下にプロポーズさせた貴公子にあやかりたかったから、というのはどうだね」
「あんたにしちゃ夢のない話っすね」
「女王陛下に求婚することは許されていなかった。真相はそれだけの話だが、ルイ。女王陛下をひざまずかせるのが当時の貴族たちの、禁断の夢だったのかもしれんぞ」
軽口を叩いてやがる。機嫌がいいんだろう。俺がこの部屋に住む女と新年を迎えようと、柄にもなくダッシュなんぞしたから。
「そりゃいいっすね。ひざまずいて、俺のアルバートをなめてくれんなら」
「故意に話を逸らそうとするのは良くない癖だぞ、ルイ」
「ことあるごとに説教する癖よりマシなんじゃないっすか?」
ドアの音に気づいたか、奥からゆったりと女が姿を見せた。クラブのカウントダウン・パーティーじゃ絶対に手に入らない安堵感は、雪より静かに降ってきて、雪より確かに降り積もる。
「うーっす。ただいま、ばあちゃん」




