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Soap Dish  作者: シトラチネ
Episode in Aurore et Crepuscule
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3. 潤滑

3. 潤滑 カネってのは、男と女の潤滑油か?



 クリスマス前のオロール・エ・クレピュスキュールは客が増える。買いに来る客、そして売りに来る客。男が贈るプレゼントの値段に比例した角度に、女は脚を開くって寸法だ。

「ねえ、ルイくんちってお金持ちなんだね」

 数時間前に買ってやったネックレスしか身につけていない女がすり寄って来る。んなわけあるか、と言いながら押し戻してやった。

「じゃあ、なんでこんな高いものプレゼントしてくれるお金があるの?」

 こいつも昨日の女と同類なんだろうな。欲しがったから買ってやった、それだけの話なのに、そこへ値段を割り込ませてくるなんて興ざめもはなはだしい。

 カネってのは、男と女の潤滑油か? それがなきゃ回んないのか、世の中ってのは。

「クリスマス前に、掛け時計をショップに持ち込んできた大学生くさい男がいてさ。女に貢ぐ資金繰りに困ったのか知らねえけど、その時計はいかにも家の物置からくすねてきましたって勢いでホコリかぶってて」

 俺に言わせりゃ、自分の所有物じゃない資産を切り売りしてまで女に貢ごうとする、その男の根性こそがホコリをかぶってる。くすねてきたとなりゃそれこそ、叩けばホコリの出る体の出来上がりだ。

「そいつは、時計なんだから動かなきゃ買取価格が下がると思ったんだろうな。ふたを開けて油を差してみたが動かない、壊れてしまっているようですと身を縮めながら言うんだよ」

 それでも買い取ってもらえるのかと上目遣いする卑屈な男をいじめてみたくなるのは、当然ってもんだろ。




「へえ、油ってまさかサラダオイルとかじゃないでしょうね、とか顔をしかめてみせたらさ、そいつは慌てて手を振って言うんだ。ちゃんとミシン油を差しました、でも油が古かったのかもしれませんねって」

 余計なことを、箱に油染みでもついたらどうしてくれんだよ。内心では罵倒しながら、外面では何食わぬ顔で、鑑定のあいだ店内をごらんになっていて下さいなんてすすめて追い払った。

 ポケットから引っ張り出したティソの懐中時計に掛け時計を見せると、流暢なお答え。

 透かし彫りの豪華さから推測するに初期型である、ギボシはオリジナルのようだし漆の状態も申し分ない。掛け時計の一番人気、ユンハンスのバイオリン、ショートケース――見たまえルイ、姫君の御髪のごときこの優美な曲線を。

 裏蓋を開けて、機械部分を外してみた。ざっと見ただけだが、油で目詰まりしている以外はきれいなもんだ。ミシン油の臭いが鼻につくから、さっさと元に戻して男を呼んだ。

「俺は、動かないようですね、お値段はこれくらいでいかがでしょうと紙に書いた。オーバーホールして動くようにしてから転売してやったその掛け時計の正当な値段から、一つゼロが足りないくらいの数字をね」

「えー、悪いんだ、ルイくんってば」

 全然悪くなさそうに笑いながら女が言う。プレゼントの資金源が、切羽詰った男が持ち込んだ掛け時計の買取と転売の差額だと知っても無頓着でいるような女だからな。

「動かないから安い値段だなんて、俺は言ってないぜ」

 どうせ俺も悪いなんて思ってやしない、無知は損するってレッスン料さ。ま、そいつがレッスンだったと気づかないままの可能性は高いけど。

「油が劣化して固まって、機械が動かなくなってただけの話さ。そいつの母親も昔ミシン油を差してみたんだろうな、ギトギトになってた」

 ちゃんと分解修理して正しく注油すりゃ、掛け時計はあの大きな古時計さながら、九十年だって動くってのに。

 こんな無知のせいで残っているはずの寿命を打ち捨てられてしまうモノが、世の中にはなんと多いことやら。アンティーク・ショップはモノの第二、第三の人生への出発の門なのさ。

「ミシン油は時計油とは粘度が違ってね、精密機械向けじゃない。ロシアがなかなか捕鯨をやめなかったのは、時計油みたいな精密機械油を――」

 ふと思いついて女に体を寄せ、ネックレスのチェーンに唇を押し当てる。




「マッコウクジラは英語でSperm Whaleってんだ。Spermは俺が今からおまえん中に出そうとしてるもんだ、分かるな?」

「やん、もう」

 とか口では言いながら嬉しそうだな。

「マッコウクジラの頭ん中には、脳油っつう浮力調整用の油が何トンも詰まってんだ。その脳油がソレに似てるからSperm Whaleなんだよ。時計にはソレが塗りたくられてたってわけ」

「いやあ」

 人の手による機械が動物の存在なくしてまともに動かないって構図は、俺にはなかなか意味深いもんに思えるけどな。

 今じゃ時計油には精製鉱油と精製油脂の混ぜもんや、合成潤滑油なんてもんが使われてるらしいが。その原料の石油だって、もともとは生物だって説もある。

「人の潤滑油は女頼みなのね」

 あいつに聞かされた時計油談義が、こんなところで役に立つとはね――舌打ちしかけたところで、女がそう言った。

 優越に笑う口元を見ちまったら、お仕置きしたくなってくるのも当然ってもんだろ?

「でも、出させるのは男だろ」

 カネでも体でもね。その両方をこの女に教えてやるところ。

「ルイくんって、なんか危ない人」

「なんで?」

「心の油が固まって、動けなくなっちゃってる感じがする」

 うるせえよ、とそれ以上まともにしゃべれない状態にしてやった。自分でも気づいてて、それでもどうしようもないことを指摘されんのは心底腹が立つ。

 俺の正しい潤滑油は、いったいどこを探せば手に入るんだろう。

 あのソープ・ディッシュとアスリちゃんみたいに、出会った瞬間に何か感じる相手なんて、俺にはいやしない。昨日といい今日といい、なんて寒々しいクリスマスなんだ。俺だってあったまりたいんだ、くそ。

 となればソープ・ディッシュにちょいと意地悪してやりたくなるのも、当然だよな? アスリちゃんの近所をうろついて、偶然でも装ってみようか。

 考えだすと楽しくなってきて、俺はその夜、とりあえずの潤滑油にさよならを言った。

 それを伝えたらあの懐中時計はほっとするか呆れるか、さてさて。


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