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Soap Dish  作者: シトラチネ
Soap Dish
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1. 運命のリボン

 目が合ってしまった。

 ということは男性にもままあることだが、女性の場合はやたらと頻発するらしい。時には無理矢理そういうことにしたりするらしい。

 僕にはそれまで、この「目が合う」経験がなかった。

 物理的に目が合うのと何がどう違うのか。そう問うてみたところ、隣にいた大先輩が答えてくれた。

 特に好みでもないのに背を向けられなくなる、呼ばれている感じがする、今を逃したらもう二度とめぐり合えない気がする、そんな感覚らしい。

「それはね、わたしたちにとって、この上なく幸せなことよ。神さまが目に見えない運命のリボンを、ひらひらと振って教えて下さる瞬間なの」

 大先輩は、誰もがその瞬間の光臨にあずかれるように、世の中はできているのだと言った。

 僕は半信半疑でいたけれど、大先輩のおっしゃることだ。敬意を込めて、その時を楽しみに待ちますと返した。

 ガラス越しの柔らかな日差しを眺めながら交わしたあの会話、あれはどこの街角だったのか。今はすでに、温かな黄昏色の思い出の中にしかないどこかだ。

 もしもう一度あの大先輩と会えることがあるのなら、僕はこう伝えたい。

 あなたは僕が知らなかった希望と幸福を、まっさらなリボンの端を、僕に結んでくださったのです。




「おはようございます」

 初めて僕が声に出してそう挨拶したとき、彼女は一旦首をかしげ、黙ってその場を離れた。しばらくしたら戻ってきてくれたので、また挨拶した。

 彼女はへたり込んだ。

 驚かせてしまったようだ。言葉をかけるときは相手を選んで慎重に、そう習った。彼女はこうした事情に詳しそうだったし、三日ほど様子も見た。だけど三日じゃ足りなかったようだ。

「もう少し時間を置くべきでしたね。お詫びします」

 あんぐりと口を開けて、という表現は今の彼女のためにあるに違いない。表情が豊かというのは便利なものだ。

「あなたにはまず、お礼を申し上げねばなりません。僕を選んでくださってありがとう。あなたはこう言ってくれましたね。目が合ってしまったから、どうしても連れて帰りたくなったんです、と」

 彼女のあんぐりが、あんぐ程度に縮小した。

「僕も、あなたとは目が合ったと思いました。あなたの手が触れてくれるように祈りながら、見つめ返し続けたんです。そう、視線というリボンで、運命のリボンも一緒に結ぼうとして」

 後ろの壁に背を貼りつけたまま、彼女はじりじりと立ち上がろうとしている。せっけんが滑るコトンという音だけで、雷より速く逃げ出しそうだ。

「あの、もしかして僕が分からない……?」

「もしかしなくたって、分かるわけないでしょう!」

 運命のリボンを結んだつもりだった相手に、そう悲痛に叫ばれてしまった。クリスマス・イヴの朝、神さまは忙しくて、僕にまで手が回らなかったようだ。

「失礼しました、最初に名乗るべきでしたね。僕は三日前、あなたがアンティーク・ショップでお買い上げになったソープ・ディッシュです」




「確かに三日前、わたしはアンティーク・ショップでせっけん置きを買った。フランス製の、真鍮の。だけどしゃべるせっけん置きだなんて聞いてない!」

 店主との話ではよくショップに来ていたようなのに、彼女はこういう事情にまでは通じていなかったらしい。これは僕の早とちり。

「ドールには魂が宿るとか、呪われたアクセサリーとか、耳にしたことありませんか? ここ日本でも、付喪神として知られているそうではないですか。齢百年にして器物に霊宿る、と」

「オッケー、落ち着いて。……つまり、せっけん置きの神さまなのね?」

 怯えたような彼女の瞳が僕を悲しくさせる。ショップで僕を手に取ってくれたときの、きらきらと輝いて覗き込んでいた黒真珠の瞳とはまるで違ったから。

 リボンの魔法は三日のあいだに解けてしまったのだろうか。

「年月を重ねて話せるようになったソープ・ディッシュと思ってください」

「分かった。それで、しゃべるせっけん置きさん。何が望みなの?」

 なぜだろう。分かったと言う割には、警戒度が上昇しているように見受けられる。彼女の瞳が跳ね返す光は、まるで味気ないステンレス板だ。

「わざわざしゃべりだしたってことは、何か目的があるんでしょう? 故郷に帰して欲しいとか、本来の持ち主へ送ってくれとか」

「そんな。僕はただ、挨拶をしたかっただけです」

 人間という生き物よりも壊れにくい僕たちは、壊れてしまうその日まで、数々の手を経て流れていくものだ。帰りたい故郷があるわけでも、送ってもらいたい誰かがいるわけでもない。

 それでも相性というものはある。日々使ってもらえることもあれば、しまいこまれたり、箱に飾られたり、愛情の注がれ方には何通りもあって、それがこちらの望みと合致するとは限らない。

 アンティーク・ショップは、いやすべての市場というものは、人間の手とモノの手が、握って心地よい相手を探して行き交う場所なのだ。その相手を見つけた瞬間が「目が合う」ときなのだ。

 目が合った彼女は運命の相手なのだから、挨拶して喜ばれることはあってもまさか、目的は何だと問われてしまうとは。




 「目が合う」感覚を教えてくれた大先輩、どこかの街角のショップで隣に陳列されていた十九世紀のブローチさんはもういない。

 こんな時どうすればいいのかを知っている先輩付喪神はいまいかと見回したけれど、彼女のバスルームに僕よりアンティークなモノはないようだ。

 僕は最近ようやく意識の生まれた新米精霊。その僕が一番の古株では、ここには指南を請える相手がいるはずもない。

「挨拶って……要するによろしく、ってこと?」

 幸いにも、彼女はようやく僕の意図を察してくれたようだ。

「そうです。毎朝おはようございますと行ってらっしゃいを言って、毎晩おかえりなさいとおやすみなさいを言って、僕はあなたのためにせっけんを最高の状態で保ちます。いつもあなたが気分よく、せっけんを使えるように」

「……それだけ?」

 僕は衝撃のあまり、せっけんを引っくり返してしまうかと思った。せっけんを美しく保つこと、それがソープ・ディッシュの使命、誇り。ソープ・ディッシュはそのために存在する。

 だから僕は、僕を飾りに置いておくだけの持ち主には満足できなかった。買った当日にプロヴァンス産のせっけんを据え、毎朝毎晩、その花の香りを楽しみながら気持ちよさそうに顔を洗ってくれる彼女を、どれほど幸せな思いで見つめていることか。

 そのせっけんが水に濡れたままぶにゃぶにゃにぬめってしまうのを防いでいるのは、他ならぬこの僕なのに。

「それだけ、だなんて……僕にはそれ以外できません。それ以外ではお役に立てません。これ以上僕に一体、何をお望みですか?」




「そうね……おしゃべり、とか」

「え?」

 僕の悲嘆とは裏腹に、彼女はあごに人差し指をあてて、ちょっと笑っていた。

「わたし、独り暮らしでしょ。友達以上の人はいるけど、クリスマスは仕事で忙しいって会ってもくれない。だから自分で自分にクリスマス・プレゼントを買ったの、それがキミ」

 真鍮のソープ・ディッシュに心臓なんてありはしないのに、それが跳ねるという人間の感覚が分かるような、わくわくと落ち着かない気持ちになり始める。

「シャンパンとケーキを一人でやけ食いしなくてすみそう。キミ、色々と楽しい話を知っていそうだもん。さっき言ってた、呪われたアクセサリーとか」

「ええ、それは、アンティークですからそれなりに」

「うわ、楽しみ! じゃあ早速テーブルに移動、移動」

 彼女はラヴェンダーのせっけんをどかすと、両手で僕を持ち上げようとした。

「あっ、待ってください!」

「なに?」

 ものすごく、ものすごく至近距離に彼女の瞳。僕の真鍮の身体に黒真珠が映って、僕はとても幸せな気分になる。

「夜中、しっかり水切りしておいたんです、せっけん使ってください。洗顔、まだでしょう? それに僕はソープ・ディッシュです。テーブルもいいのですが、きちんとせっけんを置いて、おしゃべり……が終わったら、バスルームに戻してください」

 彼女がぱちくり、と瞬きをすると、僕の真鍮に映る黒真珠も連動した。くすぐったいというのは、こうして嬉しさがさざなみのように打ち寄せることを言うのに違いない。

「そっか。うん、分かった。せっけん置きなんだもんね」

「はい。それから」

 まだ、何か? と問われているのが、彼女のけげんそうな眉で読むことができた。表情とはすばらしい。まだ顔を持たない僕はこうして言葉にしないと、何一つ伝えられないというのに。

 だから僕は精一杯、運命のリボンの端をひらひらと、その先が結ばれているはずの彼女に向かって振るのだ。

 それは神さまにしか見えないけれど、感じることはできるから。

「これから、よろしくお願いします」


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