逍遥たる誓いの剣、その77~ドーラ①~
***
「ぎゃあああ! また噛んだな、この畜生が!」
「ぐるるる!」
「最近本などに興味を示して、言語を覚え始めたと思ったらこれだ。この馬鹿犬が!」
「ガウッ! いぬジャナイ、テイセイシロ!」
ブランシェとエルリッチがいつもの取っ組み合いを繰り広げ、その傍ではライフレスが静かに読書をしている。最初はあまりの喧騒に眉を顰めていたライフレスだが、どれほどたしなめようと一向に改善しない二体の相性の悪さに早々に見切りをつけ、日常の風景として受け入れることにしてから、はやひと月。慣れれば慣れるものだと、ライフレスはそのようなことを考えながら、読書に耽っていた。
ライフレスは本が好きだ。何の種類にしろ人の記したものを読むのは心躍るし、ライフレスがまだグラハムとして活動していたころ、部下たちに命じて書物と文芸の普及を図ったこともある。同時期に活動していたアルネリアも書籍の編纂を行っていたため、度々交流を持っては、知識の補完を行ったものだ。当時は主に地理や戦果などの補填が多かったが、時代が平和になれば風刺物や娯楽の書籍も多くなる。ライフレスにとって目新しいこれらは、比較的興味を惹かれるものであった。
ライフレスに睡眠を必要としないなため、これらは時間が許す限りどれほど読んでも飽きないものだった。印刷技術の発展した現在では書籍の総数もはるかに過去より多いため、全ての本を読み切るのは到底不可能かと思いながら、ライフレスはうず高く積まれた書類を前に、戦いを挑むような気持ちで読み耽っていた。これらの書籍を用意するのは、もちろんエルリッチの業務である。
だがこれらのライフレスの余暇の過ごし方も、最近は少し違っていた。ブランシェが言葉を覚えてきたため、エルリッチとの取っ組み合いに飽きるとライフレスにまとわりつくためである。
「オウサマ! タイクツ!」
「・・・俺は退屈していない」
「ワタシがタイクツ!」
「エルリッチに遊んでもらえ」
「ヤダ、あいつキモイ!」
「キ、キモイ?」
「どこでそんな言葉を覚えた」
ライフレスはため息をつきながら、頭をかかえた。するはずのない頭痛が起こる思いである。文字を覚えさせるために用意させた書籍の中に、『巷で流行る俗語集』なるものが紛れ込んでいることなど、ライフレスは知る由もない。
だがこのままではつむじを曲げたブランシェが退屈しのぎにこの工房を脱出しかねないので、仕方なくライフレスは適当に遊んでやることとした。遊ぶと言っても、武器を持っての戦闘訓練だ。棒術などで適当に打ち据えてやれば、ブランシェは体力回復のために睡眠に入るからだ。
「(最近ではそれも中々に手間がかかるがな)」
ブランシェは元が獣だけあって、運動能力は人のそれとは比べ物にならない。身の丈の三倍はゆうに飛び上がるし、走れば四足歩行の獣も置き去りにする。純粋な身体能力だけなら、ライフレスをはるかに凌駕する。
それに武器を扱う才能もある。試しに棒術を仕込んでみたところ、並の武人よりははるかに使う。知能も高い。まるで人間の言葉を介さないところから仕込んで、数か月で人語を解し、片言とはいえ会話を可能にした。
ライフレスにとって、ブランシェに何かを教えることは、本人がそうと気付かないだけで、興味深いことであることは傍目にも明らかだった。
そうしてひとしきりの時間を過ごしたころだろうか。一つの影が工房内に現れた。武骨な鎧の音をさせながら、ドルトムントが歩いてきたのだ。
「戻ったか」
「はっ、ただいま帰還いたしました」
ドルトムントは恭しく膝をつくと、自らの主に挨拶した。ライフレスは毅然と、ブランシェは目をぱちくりさせながら、エルリッチは面倒そうに彼を迎えていた。
「アルネリアでのジェイクの護衛はご苦労だったな。帰還したということは、もう護衛はよいのか?」
「正体がばれてしまいましたので、やむを得ずというところでしょうか。ですが、既にジェイクの能力はそう容易くドゥームにも遅れをとらないかと」
「ほう、それは大したものだな。かの小僧は、オーランゼブルが目をつけるだけのことはあるということか」
「・・・それ以上、かもしれませんが」
「それ以上、とは?」
「は、それは――」
「どるとむんとー!」
ライフレスの質問は、跳びかかってきたブランシェの無邪気さにかき消された。ライフレスは怒るというよりは呆れながら。ドルトムントは鎧の下で苦笑しながら自らに懐く獣の相手をしていた。
そこにぶつぶつと文句を言いながら、エルリッチがライフレスにそっと近寄ってくる。
「くそ。私には攻撃する癖に、なぜドルトムントの奴には・・・」
「何をわかりきったことを。人徳の差だろう」
「なっ――それはあまりに酷いお言葉!」
「事実だ。貴様はまさか自らに徳があるなどと思っていたのか?」
「いや、それはありませんが。それよりも、ドルトムントの奴はジェイクを見張っていたのですか。どうやって? まさか彫像のふりをしていたわけでもありますまい」
「くく、そうか。貴様は知らないのだな。ドルトムント、正体をこいつにも見せてやれ」
「ご命令とあれば」
ドルトムントは躊躇することなく漆黒の鎧を影に戻し、その少年のような姿をエルリッチに晒した。ドルトムントの意外な正体に、エルリッチの空洞の眼すら見開かされたように感じられる。
「な・・・子ども?」
「正確には亜人だ。宵闇の一族。お前も大戦期に生きた者なら、名前くらいは聞いたことがあるのではないか?」
「は、名前だけは。闇の錬成術を得意とする連中で、その全員が武芸の達人だったとか。彼らが扱う武器はどれも名剣の類であり、どんな鎧も切り裂くと聞いたことがあります。少数民族ですが、彼らを傭兵として雇う時には、通常の10倍以上の報酬が必要だったと聞いていました」
「ギルドによる正式な傭兵の報酬が保障されない時代でもそれだ。実際には10倍どころでは、彼らの働きを正確には評価できなかっただろう。ドルトムントはその最後の一人で、しかも純系の血筋だ。お前の知っている連中は、ほとんどが混血だよ」
「なるほど、納得したような気がいたします。それにしても、まさか天下のドルトムント将軍が亜人であったとは・・・」
エルリッチは心底驚いたのか、あらためてしげしげとドルトムントを観察していた。ドルトムントも意に介する風でもなく、その視線を受ける。
続く
次回投稿は、6/3(火)17:00です。