逍遥たる誓いの剣、その41~マスカレイド②~
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時刻は八点鍾をとうに過ぎていた。今日に限ってマスカレイド――アミルの夫は帰りが遅かった。手先が器用な彼は細かな工芸品を作る職人のようなことをしているのだが、今日は彼が作った小物の売れ行きがよいとのことで追加注文が出たため帰りが遅れたらしい。そして彼はその傍ら、妻であるアミルに渡す木彫りのお守りを作っていたそうだ。それは手のひらに収まる程度の、森の精霊を象った小さなものだった。
マスカレイドは夫の心遣いに感激したふりをしたが、夫はマスカレイドが喜んだと思ったのか上機嫌でご飯を食べ、そのままマスカレイドを求めた。さすがにこの流れで応じないのはマスカレイドも不自然だと思ったのか、そのまま求められるに任せた。その夫の腕の中で八時を知らせる鐘を遠くに聞いたのである。ユーウェインがいつきてもおかしくない状況に、さしものマスカレイドも動揺した。
「ちっ、貞淑かつ夜は妖艶な妻なんて役回りにしなけりゃよかったよ。そうなら夫の求めに応じなくてもよかったのにさ。焦ったせいでつい最後までしちゃったじゃないのさ」
マスカレイドは偽装としての結婚はしたが、さすがに子どもをもうけるような馬鹿な真似はしていない。最後の最後で一線は引いているつもりだった。
だが、今日はそんな余裕もなかった。夫も求めが強すぎて、どかせる暇もなかったのだ。だがさすがに精も根も尽き果てた夫はそのままベッドの上で安らかな寝息を立て始めた。酒と食事に混ぜておいた睡眠薬も効いたのだろう。結果として不自然ではなくなったわけだが。後始末はきっちりとしなくては、こんなところで妊娠というまさかの負担をしょい込むわけにはいかない。
マスカレイドは衣服を整えながら毒づいた。
「ちょっと甘い顔をするとすぐ図に乗る。単純なシーカーだ」
「それだけお前のことを好いているのだろう。本来なら望ましいことではないか」
マスカレイドが宵闇をにらむ。そこにはいつの間にかユーウェインが佇んでいた。彼は不定形生物を思わせる体をうねらせ、人の形をとった。会話をするときは彼なりにこれを礼儀ととらえている模様だが、もちろんそんなことをしなくとも会話は可能だ。本来どこが口でどこが耳やらわからぬ体の構造だし、当然どこが心臓なのかもわからない。ただ、彼はマスカレイドと会話をする時だけ、人に似せた姿を取ることが多かった。
だがそのような全てが今は癇に障る。このような得体のしれない相手に振り回され、自分の計画が台無しにされかていると思うと、無性に腹が立った。マスカレイドはベッドの上に腰かけたまま、殺気を飛ばす。
「また覗いていたの!?」
「来いと言ったのはお前だ。私は応じただけだ」
ユーウェインは淡々と心外であることを伝えたが、マスカレイドは心底腹立たしかった。こんな生物ともなんとも取れない者に自分の痴態を幾度も晒したことが、今初めて憎らしかった。
マスカレイドはそれでも演技を続けた。まだ早い。まだこの相手を油断させねば、到底殺すには至らない。執事どもの中では末席との話だが、あのブラディマリアの眷属なのだから。
「・・・いいわ、いつものことだものね。それより食事はまだあるわ。食べるのよね?」
「もちろんだ、いただこう」
ユーウェインは人型の姿のままマスカレイドに向かって直立不動の姿勢をとっていたが、その背中がにゅるりと伸びると、もう一つの人型を取ったのだ。やや青く濁った透明な体をした人型が二つ、背中合わせにくっつきながら別々の行動をとっていた。一つはマスカレイドと会話を。一つは動物のようにがつがつと猛烈な勢いで食事を始めた。その様子にマスカレイドは度肝を抜かれたが、ユーウェインはさらりと流した。
「お前の食事はうまいな。こんな特技もあるのなら、相伴にあずかれば余計なことをせずに済んだ」
「お褒めいただきどうも。でもあんたがその勢いで食べたら、私たちの懐はあっという間にすっからかんよ。それとも食べる分、稼いでくれる?」
「なるほど、それは困る」
不定形のユーウェインが口の端をゆがめて笑うようにしたので、マスカレイドはぞっとした。笑うという行為は威嚇にも使えるが、得体のしれない生物の笑いは気味が悪い。マスカレイドは嫌な予感がし、それはすぐに現実のものとなった。
ユーウェインが、衣服をまだ完全にまとっていないマスカレイドの体をじろじろと見ている。
「ところで――ものは相談だが」
「・・・何よ。食事はそこにあるもので全部だわ。今から追加を作れば時間もかかるし、水煙も上がる。夫が寝たのに、不自然だわ」
「食事はこれでいい。貴様を味見させていただこう」
「は?」
マスカレイドはユーウェインの言葉の意味が理解できなかった。思わず頓狂な声を出してしまった。
何かの悪い冗談だろうと、もう一度聞き返す。
「言っている意味がわからないわ。何を味見するって?」
「言葉の通りだ、そこで寝転んでいるシーカーと同じことをしようというのだよ。私も生物でな。そう何度も貴様の痴態を見せつけられれば、本能も刺激されようというものだ。それこそ、町中で要求を満たすわけにはいかんからな。お前は都合がよい」
「何を馬鹿なことを。そんなことができるわけ――」
「拒否は受け入れられん。私とおまえでは生き物としての構造が違う。私は圧倒的に強者だ。お前に選択肢はなく、ただ私に蹂躙されるに任せればよい。心配せずとも、私もそれなり以上に手管は心得ている。普通の者なら発狂するところだが、お前は芯の強い女だ。なんとか耐えられるだろう。
夫の目の前でするのは、人間的には背徳的とでもいうのか? 前のそんなことをほざいた人間がいたが、面白いことだ。生物として当然の行為をするのに、罪悪感を感じるとはな」
「なっ、キサマ――」
マスカレイドが真意を問いただす暇もなく、ユーウェインは本気なのだと悟った。しゅるしゅると細かく分かれた触手のようなユーウェインの一部がマスカレイドの方に伸びてくる。
マスカレイドは身の危険を感じたが、もはや遅い。マスカレイドはふっとあの人物に助けを求めようと思ったが、合図をどうやって送るかも決めていない。
「(ああちくしょう。こんなことにも耐えてみせる自信はあるが、いつまでこんな日が続くのさ! 呪ってやる!)」
だが誰を呪えばいいのか。マスカレイドがふと詮無きことを考えた折、締め切ったはずの室内に一陣の突風が巻き起こった。
続く
次回投稿は、3/28(金)12:00