逍遥たる誓いの剣、その32~異変①~
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アルフィリースは気が付くと執務室の机に、突っ伏すように座っていた。右手にはペン、左手には書類。まるで今しがたまで仕事をしていたかのような格好である。転移を受けた後しばらく広っぱに寝転んでいたはずなのだが、いつの間にか戻って仕事をしていたようだ。転移の後は記憶が曖昧になるのか、それとも単純に疲れているのか。アルフィリースは軽い頭痛を覚え眉間を抑えた。
「いけない、かなり疲れているかしら。今どのくらいの時間なんだろう」
アルフィリースは外套を羽織ると、階下に降りる前に鏡を覗いた。寝起きのぼうっとした中でのなんの気ない行為だったはずだが、鏡の中の自分がにたりと笑ったのを見て、一気に目が覚めた。
「お前は――」
「(久しぶり)」
鏡の中の自分が邪悪な笑みを浮かべた。夢に時々出てくることは正直ある。だが最近ではラーナが夢見を調節してくれるせいか、目が覚めた時にもう一人の自分が出てきたことを覚えていることはあっても、何を話したか覚えていないし、また彼女の声自身が聞こえないことが多い。そういった意味では非常に快適にここ数か月を過ごしていたのだが、まさか現実に突如として出てくるとは完全に不意を付かれた。アルフィリースは思わず身を固くしたが、以前ほどの邪悪さや敵意は今感じられなかった。突然ではあるが、危険性は低いのかもしれない。
そうこうするうち、鏡の中の自分が語り掛けてくる。
「(風邪をひきそうだったから運んであげたのよ。感謝なさい)」
「なるほど、あなたの仕業だったのね。仕事までやってくれたのなら感謝したけど」
「(口の減らない女だこと。でも今日は時間がないから手短に用件だけ話すわ。ユグドラシルの言葉通りに行動するのはよしておくことね)」
「どういうこと?」
「(あれも黒の魔術士の一人だわ。それにその正体も目的も知れていない。あれだけ絶大な力を持ちながら、どうしてオーランゼブルのことを傍観しているのか、不思議に思わない?)
「それはそう思う。でも敵意がないことくらい私にもわかる」
「(今はね)」
邪悪な顔が少し難しい顔をした。アルフィリースはもう一人の自分が見せたことのない表情に戸惑い、質問する。
「浮かない顔ね。あなたにも心配事があると見えるわ」
「(・・・そりゃあね。私はいろんなことを知っている。おそらくはあなたより、あなたの仲間の誰よりも。いいえ、きっと真竜よりもいろいろなことを知っているかもしれない。でも、あのユグドラシルのことは知らない。おそらく、この大陸のほとんど誰も彼のことを知らないはず。だから得体がしれない、恐ろしい、何かがあってあなたの体が死んでしまったら私も消える。それは困るのよ)」
「あなたが恐れるなんてね」
「(恐怖というものは、得体がしれないから感じることができる。暗闇を恐れる人間の大半は、暗闇に何が潜んでいるのかわからないから恐れるわ。それと同じ心理よ)」
「恐れることは悪いことじゃない」
アルフィリースの言葉に、鏡の自分が驚いたような顔をした。そして、その表情を再び邪悪なものに戻した。
「(あなたに諭されるなんてね。もっと子どもだと思っていたわ)」
「私も少しは成長するのよ。もう少しで私も20歳に――」
その時アルフィリースがふと考え込む仕草をしたので、鏡の中の自分が怪訝な顔をする。
「(どうしたの?)」
「私・・・20歳まであと一年ちょっとじゃない!」
「(それが?)」
「まだ一人の彼氏もいない!」
アルフィリースが必死で訴えた表情に、鏡の自分が面喰っている。
「(そういうことになるわね。未通女は恥ずかしいけど、そんな顔をするほどじゃないと思うけど)」
「それが大いにまずいのよ! 20歳まで一度の彼氏もできなかったら、永遠に行き遅れるって言うじゃない!」
「(・・・あんたねぇ)」
鏡の中のアルフィリースが呆れていた。なんと程度の低い心配事かと、見下した様子すら見て取れる。
「(そんな故郷の噂話、いまだに信じているなんてね)」
「だってさぁ!」
「(あんなの、隣に住んでた不細工のカーサをからかうために、村の男たちが勝手に作った与太話よ。真に受ける方がおかしいわ)」
「ふーん、そんなことまで知ってるんだ」
鏡の中のアルフィリースがはっとした。見ればアルフィリースは、完全に冷めた目で鏡の自分と相対している。その目の酷薄さに、思わず鏡の中のアルフィリースはたじろいだ。
「(あんた――はめたね!?)」
「ええ、はめたわ。あなたが一体何者なのか見当もつかなかったけど、これではっきりした。あなたは私じゃない。私の一部ではあるかもしれないけど、全く別の意志を持った何かよ。そうでなければ私すら知らないことを、それほどぺらぺらと話せるはずがないもの。
安心したわ。あなたが本当に私の一部だとしたら迂闊なことはできないと思っていたけど、あなたが全く別のものだというのなら、遠慮なく消してしまうことができる。その方法がわかる時が楽しみだわ」
「(くっ――)」
鏡の中のアルフィリースが悔しそうに唇を噛んだ。対してアルフィリースは外套に袖を通し、階下に降りようと戸に手をかけた。鏡の中のアルフィリースが悔しそうにすうっと姿を消し始める。
「(確かに私は完全にあなたじゃない――でもそう簡単に消さない方がいいと思うわ)」
「命乞いなら受け付けないわ」
「(いいえ、純然たる事実よ。私を消せばきっとあなたは後悔する。もう一人と均衡が取れなくなるわ)」
「もう一人?」
「(気が付いているはずよ。あなたと、私と、もう一人。我々は合計3人で一つの体を共有している。私を追い出せば均衡が崩れるわ。もう一人のアレは、私たちなんて比較にならないくらい力が強い。今はほとんど眠っているけど、あれの意識が本格的に覚醒したら、私たちの我なんて消し飛ぶのが妥当なところよ。アレの動向と考えがわかるまで、私たちは協力すべきだわ)」
「・・・その話が真実だとして、どうするかは私が決める。あなたが口を出すことじゃないわ」
アルフィリースは冷たく言い放つと鏡の自分は何事かをわめきながら、その姿を消していった。どうやら出てくるのも時間の限界だったのだろう。アルフィリースは何とも言えない気分で、その場を後にした。
続く
次回投稿は、3/10(月)13:00です。