足らない人材、その156~楔⑳~
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同時刻――東の大陸の、さらに東の端。以前黒の魔術士たちが鬼族を滅ぼすために大暴れしたせいで、東の大陸は多くの土地が荒れていた。根こそぎ鬼が滅ぼされた後では魑魅魍魎の類がはびこるかと思われたが、破壊の爪痕は深く、魑魅魍魎ですらその場を避けて生息する羽目になった。
そんな場所から離れること数十里。その土地は黒の魔術士すらも関係なく、ただ不毛だった。生き物はおろか、草の一本すら生えない土地。祠だけがぽつんと一つ立つだけで、その他の何も存在はしない。忌み地と呼ばれ、その土地には人間だけでなく生ある者は鳥でも魔物でも、鼠の一匹すら近寄ろうとはしない土地だった。立ち入るのは唯一、鬼たちだけだった。
そのような場所でも雨は降る。低くなった場所には少しだけ雨水がたまっており、飲む生き物すらいないその水たまりは湖のように水が澄み渡っていたが、しばらくは雨も降っていないせいで、徐々に干上がりつつあった。
その近くにある祠の供え物は腐り始めていた。いつもなら10日に一度、必ず供えられる食べ物なのだが、鬼たちがいない今、誰もその祠に近寄る者はいなかった。
ただ一人、その祠の主だけが祠の外でぼんやりと晴天を見上げていた。
「お腹が空いたなあ・・・」
祠の主は鳴りやまないお腹を押さえて唸った。もう3日ほど水しか口にしていない。食べられる物がないかと探してみたが、どれも傷んでしまっており、口に含むと妙に酸っぱくすぐに吐き出してしまった。樹はそもそもろくに生えず、草すら育たない土地だ。忌み地なのだから、それが当然だと教えられた。
だが祠の主は自分で食べ物を取りに行く術を知らない。生まれた時からこの祠にいるし、自分はこの祠の守り神なのだと教えられた。何不自由ない生活を一生送る事が出来る代わりに、結界の外に出てはならないと教えられたのだ。
そのことを伝えたのは『祀り主』と言われた鬼であり、他の者からは『主様』と呼ばれていた。どうやらかなり身分の高い鬼だということはわかったので、立派な者のいう事ならそれが正しいのだろうと祠の主は従ったのだ。
だがその祀り主なる者は死んだらしい。彼と同じ姿をしたものが、ある夜夢枕に立った。半身がほとんど潰れた姿で現れたそれは、自分はもう来れないが、最後の力で祠の場所を悟られないように隠したと言っていた。だから、そのままここから出ないでほしい。出れば、恐ろしい奴らに見つかってしまうと。何があっても、決して出てはいけないと彼は繰り返し繰り返し、呻くようにして消えて行った。死にゆく自分より案じるとは、余程自分は大切に思われたのかと胸が熱くなり、その言葉に祠の主は大人しく従った。鬼は恐ろしい姿をしていたが、いつも自分には丁寧に、優しく接してくれたからだ。その理由が『畏れ』ではなく『恐れ』であることを、彼女はついに知ることはなかったが。
だがその言葉に従おうにも、このままでは飢え死にすることは確実であった。まさかこの中で死ぬまで過ごせというのだろうか。だが外に出たとして、恐ろしい何かがあるのではどのみち死んでしまう。そんな自問自答を空腹の中少女は繰り返し、そして決断をすることもなく、そのままその場にうずくまっていた。しかし少女も馬鹿ではない。あと一日、それが自分の限界だと悟っていた。次に陽が上った時に何の変化もなければ、少女は禁忌を覚悟で外に出るつもりだったのだ。
――そして一日が経ち、少女を取り巻く世界には何の変化も訪れなかった。その事実は少女の幼い心を多少なりとも絶望させた。少女は馬鹿ではなく、むしろ聡かった。だからなんとなくこの結果も、予測はしていた。世界は自分の都合など関係なく周り、そして自分が死んでも変わりなく残酷なまでに空は青いままなのだと。
そして、少女は行動を起こした。自らこの土地を離れようと、初めて行動を起こした。祠を出て、結界から足を踏み出す。結界は中から出る者をそう遮らないのか、多少抵抗感を感じたが、すぐにその抵抗感も消失した。入ってはいけないと言われた森に入り、草木をかきわけ先に進む。不思議な事に深いと思われた森は、少女が分け入るとそうでもなかった。あれほど密生していたと思っていた草や木は、いつの間にか避けるように消え失せた。
少女はやがて急勾配の坂に突き当たる。歩いて登るのは無理だが、手をかければなんとか登れる程度の坂。少女は最後の力を振り絞ってその坂を登り始めた。手の爪が取れようと、皮膚が裂けようと、少女は最後の力を振り絞ってその坂を登りきったのだ。やがてその坂の切れ目が見え、少女は必死の思いでその坂から向こうを覗いた。だが――
「え、ええっ?」
少女が見たものは、一面の空だったのだ。大地は遥か眼下にあり、そそり立つ山の頂上だということにしばらくしてから少女はようやく気付いた。そしてその山は断崖絶壁で降り口などなく、その頂上の大地をくりぬくようにして作られたのが、この祠のある場所だったのだ。その断崖絶壁は人では決して登れぬ。空には怪鳥の類が放してあり、上る者を無差別に攻撃するように躾けられているのだ。その断崖絶壁を登れる者は、その土地を治めていた鬼たちだけだという事を、少女は知らなかった。
ここはそう、牢獄だった。この少女のために作られた牢獄であることを、少女は初めて知ったのだ。
「これじゃ・・・出られないよ」
少女はしばし外を眺めながら、何をすべきか漠然と考えていた。あるいは何とかして脱出の方法はないかと。だが、どれほど悩んでも、目に入るのは憎らしいくらい美しく澄み渡ったと空と、壮大な雲海だった。
少女は知らず知らず泣いていた。これではあんまりではないか、こんな運命しかないのなら、なぜ自分は生まれたのかと。だがどれだけ少女が怒ろうが悲しもうが、誰も彼女の声に応える者はいなかった。
やがて少女の涙が枯れる頃、少女は一つの決意をした。どのみち死ぬ運命なら、ここから飛んで死のうと。そうすれば、一瞬でも外の世界が拝めるはずだ。思いついてみれば、そう悪い考えではないように思えた。
「もう動く気力もないよ・・・けど」
最後の力を振り絞り、体を絶壁の向こうに躍らせようとしたその時、空の一点がきらりと光った。少女がはっと気付いて目を凝らすうちにも点はみるみる大きくなり、少女に向かってくるではないか。
「・・・きゃああっ?」
少女が思わず身を守ろうとしたが、光はかなり少女から離れた所の地面を抉るように落ち、そして大きな痕をつけながら、祠の方に転げて行った。森の木を根こそぎなぎ倒すところを見る限り、相当の勢いがついていたとみるべきだろう。
少女は一瞬きょとんとし、そしていつの間にか転がり落ちてきた何か方に向けて走り出していた。もう動く気力もないと思っていたのに、少女の体は動いていた。何の変哲もなく、同じことが繰り返されるだけの世界だった場所に、初めてもたらされた変革。少女はその正体がたとえ不吉なものであろうと、どうせ死ぬのなら正体を知りたかった。
少女はその小さな体で必死で走り、何度も転びながらも何かが落ちてきた場所に辿り着いた。その途中で、少女が住処としていた祠を破壊されていたのが目に入る。もし先ほど祠から出ていなければ、あの衝撃に巻き込まれて死んでいたかもしれない。その時、少女は初めて解き放たれたような開放感を覚えたのだった。
そして少女は見た。自分の世界に落ちてきた、突然の来訪者の正体を。それは少女が想像したどんなものとも違った。来訪者は少女が見た祀り主――鬼の一族の首領と同じくらい大柄で、そして白銀の髪をした獣のような人間だった。確かに姿の上では人間なのだが、少女はそれが人間だとはどうしても思えなかったのだ。
「この人――ううん、私と同じ人間なのかな?」
少女は壊れた祠の陰に隠れて、そっとその様子を窺った。とてもではないが、近づくほどの勇気を持てなかったのだ。だが少女は感じていた。この何者かは、間違いなく自分の運命であると。
そしてしばらく見守るうち、その男は突如としてむくりと起きた。そして少女が腰を抜かさんばかりの勢いで吠えたのだ。
「ちきしょうおおおお! いてぇえええええ! ここはどこだぁあああああ!? 腹がへったぁあああああ!!」
地面が男の咆哮に従って、びりびりと震えた。その怒号のすさまじさに、少女はその場にへなへなと座り込んだ。その時隠れていた柱を引き倒した音に、男が反応した。
続く
次回投稿は、11/4(月)22:00です。