不帰(かえらず)の館、その33~疲弊~
部屋に入るとそこは冷たい岩づくりになっており、まるで数百年前の牢屋を思わせるような造りであった。近年の牢屋はその本質として囚人を苦しめるためのものではなく、改心させるためのものであるとの見方が国際的になされているため、中はレンガ造りでその上に敷物を敷いていることが多い。場所によっては一般家庭よりも快適なのではないかと言われるほどだ。光や清潔感にも配慮されたつくりであることが多い。
だが今ラファティ達が見ている部屋は、冷たい岩肌がむき出しになった、旧時代の牢屋である。壁には光取りなど一切なく、じめじめした空気が肺に重い。小さな虫がぞろぞろと動き回り、そこかしこには糞尿が垂れ流しであった。異臭もひどく、吸っているだけで何かの病気になりそうな澱んだ印象を与えた。壁には鎖が固定されており、ここが牢屋であったことを示している。鎖はおよそ20人分ほどもあったが、部屋はどう考えても20人も入らない。この中に人間が閉じ込められていたのかと思うと、ラファティは吐きそうになった。わずかたりとも、こんな部屋に押し込められてら気が狂いそうになるだろう。
「ここがそうか・・・?」
「微妙なとこやな。確かに嫌な雰囲気はあるが、魔術的な要素を感じへん」
「同感です。ここは拠点ではないのでは?」
「ならばここはいったい」
ベリアーチェが疑問を言葉に仕掛けた時、ウルティナとインパルスは既に壁や鎖を調べていた。そしてウルティナがとある疑問を抱く。
「この部屋・・・いやに血痕が少ないですね」
「そうなのか?」
「はい。鎖に血はこびりついていますが、床にはさほどでも。鎖を外そうともがいたのかもしれませんが、ここで拷問が行われたのであれば、もっと床に血が流れていてもよいのでは?」
「そうなると、さらに隠し部屋があるのか・・・?」
「それより一旦出えへんか。そろそろ気分が悪くなりそうや。そこのハルピュイアのお姉ちゃんも、限界なんとちゃうか?」
「あ」
インパルスが見ると、エメラルドは口を押えて真っ青になりながらふらふらしていた。インパルスは慌ててエメラルドを外に連れ出すと、そこで黒い扉の外に立っていた騎士の胴体が頭と泣き別れる瞬間に立ち会ったのである。
「は?」
「うわああ!」
騎士の一人が同僚の異常に気が付き悲鳴と共に剣を取ったが、信じられない者を見たといった顔つきで、身を守ることすらなく上半身が吹き飛んだ。
インパルスの目に映った光景は、大剣が騎士の上半身を吹き飛ばす光景。よく見れば、外にいた人間達は既に全員死んでいるではないか。血に塗れた床が、部屋の中からうかがえた。
「なんだって? そんな馬鹿な、こんな短時間で!」
インパルスが驚愕の声が上げる中、ゆっくりと扉が開いて中に入ってきた大剣を携えた男。ちょうどそこに、隠し部屋に入っていた人間達も悲鳴を聞きつけて出てきたのだ。だが誰もが皆同様に驚嘆した。それもそうだろう。剣を持っていた男とは――
「馬鹿な、なぜここに!」
「どういうことだ?」
「何をしているんだ、アルベルト!」
ラファティが腹の底から叫んだ名前は、神殿騎士団長アルベルトそのひとであった。
***
「ここまでのようすですね・・・」
部屋の魔王と化した男は、血みどろになったルナティカを見つめながらつぶやいた。さしものルナティカも、全身が血で深紅に染められていた。魔王は目を細めながら、その少女を見守る。
「よくやりましたが・・・一つ聞いてもいいでしょうか?」
「なんだ?」
ルナティカがけだるそうに答える。身をその場に縮こまったまま、ルナティカは覇気のない声を出した。魔王は続ける。
「貴女、本当にただの人間のままですか? 一部人間でなかったり、魔術的な要素は持ち合わせていない?」
「知らん。もしかすると育成の過程でそういったこともあったのかもしれないが、私自身が人でなければと望んだことは、一度もない」
「なるほど。才能の差、ということですかね。この結末は」
魔王は自分の体を見た。いくつかの家族が暮らせるほどの空間を持つ魔王の体は、傷ついていない場所を見つける方が難しいほどずたずたに切り裂かれていた。無数にあった瞳は片端から潰され、口は激痛で開ける事も出来ないほど切り裂かれた。舌は引き抜かれ、手の代わりであった無数の触手は一本残らず刈り取られた。壁に走る血管は切断され、部屋の中に血の海を作ったのだ。いまだに血は止まらず、まるで壊れた水路のように血をどぼどぼと吐きだしていた。
ルナティカは魔王の倒し方がわからないと悟るや、部屋ごと魔王を殺すことにした。魔王が再生するよりも速く傷を作り、深く抉った。ルナティカの手持ちの武器は負荷に耐えられず全て折れたが、ルナティカはためらいなく素手で作業の続きを行ったのだ。さしものルナティカも、返り血を大量の浴びざるを得なかったのである。
部屋に満たした酸代わりの唾液も、ルナティカは見事に躱しながら魔王を解体しいていった。魔王はこの体を手に入れながらも苦痛から逃れられぬ自らを呪ったが、同時に自らの業界で半ば伝説となりつつある暗殺者の手口を、余すところなく身をもって体感できる自分の幸せを実感もした。一流の暗殺者に殺される者は自ら頭を垂れると言うが、魔王は同様の心境を味わった。途中からは苦痛も忘れ、ただただ少女の戦い方をできる限り脳裏に焼き付けようと必死だったのだ。勝利など、どこかに忘れてしまっていた。
だがルナティカにとってはただの作業である。より効率よく、より大きな痛手を与える事しか考えておらぬ。ルナティカはいつものように自らの攻撃が相手にとって致命傷となったことを確認し、敵の抵抗がないことを悟ると少しでも体力を回復させようと、ためらうことなく血の海の中にうずくまったのである。
魔王は崩れる自らの体を、最後の力で引き裂くとそこにルナティカを案内した。
「行くといい」
「敵に塩を送る気か」
「そうではない。ただ自らを殺した人間が、その場であっさりと死ぬのは耐えられない。中にいれば私の崩壊に巻き込まれるだろう」
「そうか。恩には着ない」
「当然だ。私もこんなことをする自分に驚いている」
それだけ言うと、外に出たルナティカはさっさとその場を去っていった。こちらに一瞥もくれないその背後を見送って、男は静かに最後の時を迎えようとする。
「(暗殺を続ける中で自らの力量を試すため、進んでこのような体になったが・・・もう少し人間として研鑽を積むのも悪くなかったかもしれないな。だが最後に良い物を見た。悔いはない・・・決して悔いは)」
魔王となった男は妙に安らかな自分の死に際を感じ、その意識をゆっくりと閉じていった。
そして脱出したルナティカは、敵がいないことを確認すると自らの体の状態を把握する。使えない衣服や余計な装備は全て外し、多少なりとも身軽になろうとする。またその辺のカーテンを使い、返り血をいくらか拭き取った。
ほとんど下着のようになった自分の姿を鏡で見ると、ルナティカはカーテンを外して身に纏った。羞恥心からではない。武器を隠すところがない姿は、暗殺者として失格だと思ったからである。
「(手強かった・・・あと少し相手が持ちこたえていたら、こちらの体力が尽きていた。右の折れた肋骨が肺を圧迫しているせいか、多少息苦しい。武器もないし、体力も底を尽きかけている。戦闘力は全快時の二割、というところ。
それにしてもさっきの魔王はなんだった? あの男は手長足長の指示役の男のはず。最初から魔王だったのか? いや、そんな話は聞いたことがない。奴は出自もきちんと知れているはずだ。さっき聞いておけばよかった)」
ルナティカにしては珍しく後悔していたが、それだけ彼女にも余裕がなかったのである。それを示すように、ルナティカはその場に壁を背もたれに座り込んだ。
「(リサを助けに行かないといけないが、多少休憩しないとさすがに体が動かない。どこにいるかも定かでないし、探し当てた時に体力が尽きていては何をしに行くのかわからない。リサが心配。だけど、彼女ならきっとうまくやるはず)」
ルナティカが一瞬だけ意識を休憩に向けようとしたとき、自らに近づく気配をルナティカは感じた。疲れたその体を起こすと、ルナティカは身構えて周囲を警戒する。
続く
次回投稿は、11/25(日)9:00です。