少年達、その32~対決~
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コンコン
オブレスは部屋の戸をノックする。不思議なことに、グラスライブの部屋の周囲には誰もいなかった。来客時、たいていは誰かが部屋の外に詰めているのだが、今回はそのような事もない。オブレスはこの協会を引き払う準備でいそいそと騎士達が動きまわるのを見ていたが、そのせいなのかとも思う。
だが千載一遇の好機には違いない。中からグラスライブの返事が聞こえると、オブレスは意を決してグラスライブの部屋に入って行った。
「失礼します」
いつもの慣れた行動だが、今日はオブレスに全く落ち着きが無い。いや、昔も実は同じような気持ちだったかもしれない。この部屋に入るたびに、最低のクソを喰わされているような気分になった事を、オブレスは思い出す。グラスライブの相手をする度、便所の底を舐めるのとどっちが最低かと比べた事を思い出した。ただ余りに最低過ぎて、自分は考える事も感じることも辞めていたのだと思いだした。
その最低の思いをオブレスに味わわせた当の張本人が、目の前にいた。グラスライブは相も変わらず、殴り潰したくなるほどの最高の笑顔である。どうしてこの笑顔であれほど最低の行為に及べるのかと、今でもオブレスは不思議でならない。そしてグラスライブの手伝いをしてわかったことだが、この司祭は最低のクズであると同時に、確かに多数の人を助けているのだ。人を助けることができるのならば、どうして他方で人を貶めることができるのかなど、オブレスにはどうしても理解のしようがなかったのだ。そういった意味で、オブレスにとってグラスライブは怪物であり、とても理解不能であり、畏怖の対象だった。
だがもはや理解する気もない。恐怖するだけの時間もない。あと1/4刻も経てば、目の前の司祭はただの肉塊となっているのだろうから。オブレスは出来る限り無機質に、心を悟られぬようにグラスライブに問いかけた。
「今日は別れの挨拶をしに参りました、司祭様」
「ほう、では出て行くのかね? いくらなんでも急ではないだろうか。彼らの溜めこんだ財宝は奪われたと聞いたが・・・」
「ええ、確かに。でも他に当てがないわけではないので。全ての人間を連れていくことはできませんが、身動きが取れないわけでもありませんし」
「ほほう、それは初耳だ」
グラスライブは感心したように、たるんだ顎を撫でた。その仕草にオブレスは何らかの違和感を覚えた。この司祭と長く過ごし、グラスライブの癖はなんとなく把握している。彼が顎を撫でる時は、何らかの理由で焦っている時が多い。
「(司祭が焦っている・・・何に?)」
オブレスにはその理由がわからない。さきほど大司教であるエルザが訪れ、彼に最後通告にも等しい宣言をしたことなどオブレスは知る由もないのだから。
オブレスは内心で不審がりながらも、話を続けた。
「ともかく我々はここを去ります。もはや貴方の援助を受けることもないでしょう」
「なるほど、それは寂しくなるね。だがそれが君の決断ならば私は尊重するが、いったい誰を連れてここを出るのかね?」
「まだ将来のある者達を、お前に汚される前に」
オブレスはその言葉と共に、懐にしまっておいた工作用の槌程度の金属の槌を取り出した。その柄には天秤のような紋様が彫られており、それはグラスライブが見たこともない紋様であった。また金属の輝きも鉄とはまた違う。一瞬鉄かとも思うが、どうにも銀に近い光沢も持ち、グラスライブが見た事のないであろう金属でできているらしかった。グラスライブは不審そうにオブレスを見たが、まだ彼は落ち着き払っていた。それは、己の絶対的優位を信じて疑わない姿勢でもあったに違いない。少なくとも、グラスライブにとってオブレスは、自らの命を脅かす存在ではなかったのだ。
だがオブレスは何らかの自信を持つかのように、グラスライブに向かってその槌を指し向けた。
「今ここでお前を殺す。そうすれば俺達は自由だ。もうお前に脅かされることも、泣いて暮らすこともない。最初からこうすればよかったんだ。そうすれば、俺の仲間はこんなにもお前に怯えなくて済んだ」
「これは心外な事を。いつ私が君達を脅かしたのです?」
グラスライブの言葉に、ぎりとオブレスが唇を噛んだ。その表情には怒りがにじみ出てきている。
「どの口で・・・どの口でその言葉をほざく!? あれだけ俺達を弄んでおいて――ヴィラを覚えているか? お前のせいで、あいつは川に身を投げた! お前に毎晩毎晩犯され、あいつは正気を失ってしまったんだ!!」
「ああ、そんな少年もいましたね。彼は良い表情をする少年だった。もっと早く現実を受け入れていれば正気を失わずに済んだのに、君のような柔軟さと強さが彼にはなかった」
「ふざけろ! こんな現実を受け入れる必要がどこにあるっていうんだ!」
オブレスは思わず声を荒げた。この部屋に防音の魔術が施されているとは彼は知っていたが、それでも彼は怒りに我を忘れかけていた。今さらになって、オブレスは自分の死んだ仲間の顔を思い出していた。
ヴィラという少年は愛想の良い少年だった。これといった特技もなく、正直『兄弟』においては足手まといにも等しい存在だったが、彼の笑顔は仲間の荒んだ空気を和らげた。その少年がある日を境に笑わなくなった。それは彼がグラスライブの元から一晩帰ってこなかった夜と、時を同じくしていた。
その日からヴィラは『兄弟』のアジトに帰ってこない日が多くなり、ついに何日も行方がしれない日が続いた。その数日後、仲間が川の中に浮かぶヴィラの死体を見たのだった。
仲間は慌てて彼を地上に引き上げたが、既にヴィラは死んでから何日も経っていた。愛想の良かった顔は水で膨れ上がり、とても見れたものでなかった。仲間の多くはヴィラの死にざまを見て、その場で吐いた。あまりに生前の姿を残さぬ死に方に、誰もが衝撃を受けたのだった。彼がただ一つ生きていた時と変わらぬことと言えば、彼に対して仲間が贈った、サイズの合わない腕輪くらいだったろうか。
グラスライブのせいで死んだという、はっきりとした証拠はない。だが間違いなくグラスライブのせいだと、オブレスとその仲間達は確信していた。だがそれが事実だとしてどうなるものでもない。グラスライブの庇護がなければ困るのはオブレス達であり、それがわかっていたからこそオブレス達は何も言わなかったのだ。だが恨みだけはしっかりと、その胸に刻まれているのであった。
そうやって積もりに積もった恨みが、今まさに爆発をしているのである。オブレスは噛んだ唇から血が出るのも構わず、グラスライブを睨んだ。
「ずっと、ずっと我慢してきたんだ! 確かにあんたには世話になった。あんたがいなけりゃ俺達は死んでいたさ。だがな、それとこれとは別問題だ。俺達はあんたの玩具じゃないんだ。これ以上好き勝手をされてたまるか!」
「やれやれ、だから大きくなった子供は嫌いなのです。生かしてやった恩を忘れ、主人にまで噛みつこうとする。この世の中に、どれほど生きたくても生きることのできない子供が溢れていることか。彼らの事を思えば、たかが一年程度の代償を払っただけで生きて出世の機会まで与えられる君達がどれほど恵まれていることか。自らが幸福である事を知らぬものほど不幸な者はいませんね。これでは野良犬の方がよほどましというものだ」
グラスライブは椅子に座ったままため息をついた。その行動はグラスライブにとって心底たる嘆息だったが、オブレスを最高に苛立たせるのには十分だったのだ。オブレスは右手の槌をさらに握りしめると、グラスライブに向かって突進したのだ。
「グラスライブ!」
「しょうのない子供だ。逆恨みも甚だしい。私は一度たりとて何かを強制したことはないのに。いつも君達に選択肢を与えていたのだ。誇りを捨てても生にしがみつくか、誇りを抱いたまま死ぬかは君達の自由だ。だが、私は命以上に大切な物などないと考えていたし、君達も同じだと思っていたのだがね」
殴りかかるオブレスに、座ったままのグラスライブ。だが彼らが接触した時に吹き飛んだのはオブレスだった。壁に背中を打ちつけてくぐもった悲鳴を上げるオブレス。
「ぐぅ・・・」
「私は格闘もそれなりにたしなむが、それ以前に魔術による防御がある。魔術に対する対抗手段を持たない君に触れる手段はないだろう。また魔術に対抗する手段があったとしても、アルネリアの魔術自体が防御に特化している。並みの魔術士では、そもそも破ることはかなわないのだ」
グラスライブは余裕をもって立ち上がる。その様子を見てオブレスも負けじと、壁にしがみつくように立ちあがる。単純な防御の魔術も、極めれば攻撃力を持つとされる。まして防御の手段を持たないオブレスにとって、グラスライブの防御魔術は暴風のようなものであった。
それを知っているから、グラスライブは余裕を持っているのだ。少なくともオブレスに、自分の魔術を破るような手段があるとは考えてもいないのだろう。ただ唯一、オブレスが右手に持っている槌がグラスライブは気になる。あの衝撃を受けても、オブレスは右手だけは放さなかったのだ。オブレスの槌は、グラスライブに軽く触れる程度しか届かなかったというのにだ。それに、人を傷つけるならもっと効率のよい武器があるだろうとも思う。
グラスライブはやや警戒しながらも、オブレスに優しく語りかけた。それはきかん坊を窘めるようでもある。
「オブレス、そこまでにしなさい。お前ではどうやっても私に勝てない」
「・・・それはやってみないとわからないさ」
「困った子だ。今なら、私に歯向かったことを見逃してやろうと思ったのだが。せめて特等席でこれからの出来事を見せようと思ったのに」
「これからの?」
グラスライブはゆっくりと奥の扉の方に歩くと、その扉を押し開いた。中には明かりが既にともっており、何が部屋の中にあるかが良くわかったのだ。そこにあったのは、手足を拘束され横たわるエルシア。意識はないのか、身動き一つなく大人しく横たわっていた。その様子を見てオブレスの顔色が変わる。
「――ッ!」
「今私に歯向かうのを止めるというなら、お前もこれから行われる事を傍でじっくりと見せてあげよう。なんだったら参加してもいい。お前もまんざらでなく、この子の事を思っていると聞いているが?」
「・・・やめた」
オブレスの顔から、すっと怒りの表情が抜け落ちた。代わりに、その瞳には侮蔑の色が浮かんでいる。まるで害虫でも見るかのような目つきに、今度はグラスライブが怒りの表情を浮かべた。
続く
次回投稿は、4/20(金)10:00です。