少年達、その25~窮地~
「ゲイル、危ない!」
「え?」
ゲイルが振り向いた時に彼が見た物は、自分に向かって伸びてくる青白く、不吉な手。ゲイルは反射的にその手を振り払ったが、相手の顔に気が付いて彼はぎょっとした。
「な、なんだこいつ?」
ゲイルの目に映った者は、一見人間に見える何か。姿形は人間。背丈も人間。だがその目はカタツムリのように飛び出し、触手の先端に目がくっついている。体の表面は暗がりでよくわからないが、何らかの粘液でぬらぬらと光っていた。
ゲイルは恐怖を感じるよりも呆然としてしまい、彼は逃げるよりもその場に立ち尽くしてしまった。ゲイルが唖然とする間にも、エルシアは行動を起こしていた。
「ゲイル、逃げて!」
「・・・は」
だがもう既にその何者かは手を再びゲイルに伸ばしていた。ゲイルはまたしてもその手を振り払おうとするが、今度はその相手が逆にゲイルの手を打ち据え、彼の喉に手をかけた。
「ぐっ」
「ハラ・・・ヘッタ」
その口からこぼれたのは片言の言葉。人間としての発音はとどめているが、その音調はまる感情がない。ただ本能に従い、その口はゲイルを捕食せんと大きく開かれた。その口の中にのこぎりのような歯がびっしりと見える。
ゲイルは生まれてこの方、この貧民街から出たことがない。彼の母親は娼婦であったし、彼は幼い頃は母親に、母親がどこへともなく姿を消してからはその仲間達に育てらてた。だがその娼婦達も生活が厳しくなるにつれ、ゲイルは自然と相手にされなくなった。そのせいで、彼は自分で暮らすために貧民街に紛れ込み、残飯をあさるような生活を始めたのだった。つまり生まれてこの方この町から出たことのない彼にとって、魔獣や魔物は物語で聞くだけの存在でしかないのだ。その危険性に、頭がついていかない。
「なんで・・・こんな奴が」
ゲイルはいつの間にか宙に持ち上げられていた。彼は大柄な少年である。エルシアよりは頭一つくらいは高いし、小さな大人くらいの身長があった。その彼を片手で持ち上げる異形。ゲイルは喉を締め上げられる苦しさも忘れ、自分を持ち上げる異形を見ていた。
「ゲイルっ!」
だがエルシアはそうではない。彼女は昨日見た魔物のせいか、対応がゲイルよりも一歩速かった。彼女はいつもマントのような上着のポケットの中に忍ばせている小石を取り上げ、両手に構えていた。
「この化け物!」
エルシアが両手の指ではじいた石は、化け物の両目を直撃した。キィィ、という奇声と共に思わずゲイルを放す化け物。ゲイルは化け物の手から解放されると、息を吸ったことで初めて自分が喉を締められていたことを思い出したかのようにむせた。
「げほっ、げほっ」
「ボヤボヤしている暇はないわよ、逃げなきゃ!」
エルシアはゲイルを引きずり起こすように手を引き、彼はふらつく足でエルシアが手を引く方に走った。だが階段を下に降りたところで、彼らはより事態が深刻であることに気が付いたのだ。
「どこから・・・」
エルシアが思わず正直な気持ちを口にした。彼らの目に入ったのは、同じ姿の異形が多数彼らの行く手を阻んでいる場面だった。
そして彼らは歩みを止めた。突破するにはあまりに多い数。それらがこちらを一斉に見ているのだ。とても脱出できるような気分にはならなかった。エルシアは泣きたい気持ちになったが、そこはまだ子供なのか怒りの矛先がゲイルに向いた。
「ゲイルがこんなところに入るから!」
「仕方ないだろ、誰がこんな奴らがいるって想像つくかよ!」
「ちゃんとルールを守らないからだわ! 巻き込まれた私の身にもなってよね」
「なんだとこの・・・」
そこまで言ってゲイルはエルシアの目から涙がこぼれていることに気が付いた。我儘で気の強いエルシアが涙を流すところを、ゲイルは初めて見た。それだけ怖いし、脱出が難しいとエルシアが思っていると受け止められた。
ゲイルは思わず上げそうになった拳を下げ、力なく項垂れる。その背後には異形が迫っていた。その異形に気が付いたエルシアだが、彼女が抵抗をしようとした矢先に、その異形の首は吹き飛んだ。
「見つけた。封書の残りを返せ」
白銀に輝く髪をなびかせ、血飛沫飛び散る中に現れたのはルナティカであった。彼女は今しがた自分が斬り飛ばした異形などなかったかのように、エルシアをじっと見つめるるのだ。その無表情に、どこか安心感を抱くエルシア。正直、封書の事などエルシアの頭の中から吹き飛んでいた。
そんなされるがままのエルシアの体をまさぐり、その懐から封書を抜き出すルナティカ。エルシアとゲイルは呆然とその様子を見ていたが、ルナティカは用事が済むと異形の群がるさっさと階下に降りようとした。そのルナティカがちらりとエルシアの方を振り返る。
「これから脱出。死にたくなければついてこい」
それだけ言うとルナティカは猛然と異形に向かって突撃し、当たるが幸いとばかりに異形をなぎ倒し始めた。異形共は姿こそ嫌悪感を催すがその動きは緩慢で、ルナティカにしてみれば止まっているのも同然だった。無数にいるように見えた異形達も、みるみるうちにその数を減らしていく。そして建物の入口からも援軍が来た。
「ルナ、無事?」
「封書は無事、問題ない」
「いや、そうじゃなくってさ」
どこか焦点のずれたルナティカの答えに、苦笑するアルフィリース。ルナティカはそんなアルフィリースの表情を不思議そうに観察しながらも、異形をなぎ倒す手は止まらなかった。そのうちに階下の異形はほぼ一掃され、周囲の安全を確認するアルフィリース達。
「ライン、あらかた片付いた?」
「こっちはな。だが脱出するなら早い方がいい。そのガキどもはどうすんだ?」
「そうね・・・」
アルフィリースは、ルナティカの後にできた血まみれの道をおずおずと歩いてくるエルシアとゲイルに目を向けた。彼らはアルフィリースに見つめられると、気まずそうに眼を逸らしたが、
「とりあえず安全な所までついてくる?」
と声をかけられると、今度はびっくりしたように彼女を見つめ、思わず縦に頷くのだった。
続く
次回投稿は、4/8(日)10:00です。