冬の訪れ、その25~人知れぬ戦い⑦~
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エスピスとリネラが炎を巻き起こしてからしばらく後。彼らはミナールとの打ち合わせ通り、風の魔術が発動したら袋の中身をばらまき火を付け、その後は安全地帯から様子を観察していた。
出てくる者がいれば、雑魚なら消す。そうでなければ殺せるか追跡するかの判断は二人に任せると、ミナールの言葉だった。彼らは忠実にその言葉を守っていたが、あの業火の中から出てくる者が果たしているのだろうかと疑問に思っていた。
炎は、それ自体の殺傷能力は低い。だが視界を奪い、呼吸を不可能にする炎に包まれて冷静さを保てる者はまずいない。視界の効かぬ状態でこの広い工房を脱出できる者がいるとは、エスピスとリネラには考え難かった。だが、ミナールの命令は彼らにとって絶対である。二人は忠実に、工房の前で何者かが出てこないかどうかを待ち続けた。
そうした彼らの考えは、思ったより早くあっさりと破られた。工房から炎に包まれた男が一人出てきたのである。その男はよろよろとよろめくのではなくしっかりとした足取りで歩むと突然ぴたりと止まり、その場に仁王立ちになった。そして手で何やら印を組むと、全身からは一斉に血が噴き出したのである。エスピスとリネラがぎょっとする中、男は自らが噴き出した血にて炎を消していた。
「ふん、小賢しい真似をしてくれたものだ」
「そうだね~」
男が何やら独り言をつぶやいたつもりだったのだが、それに相槌を打つように炎の中からもう一人が出てくる。それは全身が触手のようなものに覆われた、なんとも奇妙な物体だった。絶えず蠢く触手の球体は、その蠕動運動にて炎に包まれきらないようだった。そしてその触手がほどけると、中からは醜い老人のような少年が現れたのである。
「ふーう。あー、びっくりした」
「無事か、アノーマリー」
「あれ、ボクの心配をしてくれるの? ヒドゥン先輩」
「心配したくはないがな。貴様がいなくては計画がはかどらん」
「ああ、体だけが心配ってやつだね」
「人聞きの悪いことを言うな」
くねりと体を曲げて見せるアノーマリーを無視し、ヒドゥンは影から自分の衣服の控えを取り出し着替えた。相手にされなかったアノーマリーはしぶしぶ、工房の入り口から少し離れた場所で魔法陣を起動させていた。
着替え終えたヒドゥンがアノーマリーに歩み寄る。
「後始末はどうする?」
「それはボクがやっておくよ。こういうこともあろうかと、一応全ての工房に自爆用の魔術は敷いてあるんだ」
「なるほど。ならそちらは任せた。私は自分の任務に戻る」
「任された。また暗殺するの?」
「それもある。だが、しばらくはサイレンスとの共同任務になるだろう」
「ああ、アレクサンドリアか。そういえばこの前、面白い奴にあったよ。アレクサンドリアの元騎士でね・・・」
「・・・ほう、それは興味深いな。何かに使えるかもしれぬ」
「でしょ?」
アノーマリーとヒドゥンが何やら話し合うのを少しでも聞き取ろうとリネラが近寄ろうとするが、エスピスがそれを止めた。リネラは不審そうな目でエスピスに訴えるが、エスピスの青い顔を見て、その場で思いとどまったのである。
さしものヒドゥンもこれ以上の伏せ勢は考えていないのか、あるいはもはやいても関係ないと思っているのか。周囲にあまり気を配っているようには見えなかったが、エスピスがリネラを止めた事は正しかった。なぜなら、あと数歩踏み出せば、自動的にヒドゥンの警戒網に引っかかっていたのである。
ヒドゥンとアノーマリーは会話を続ける。
「それにしても苦戦したねぇ」
「苦戦はしていない。だが、中々にできる奴ではあった。結果として最後の攻撃は防げなかったからな」
「まああの程度で死ぬような奴は、ボク達にはいないけどね。それより相手はちゃんと死んだの?」
「ああ、影転移がもはや発動しない。死んだのだろうな。餓鬼の中に飛び込んで、かつ生きている事は考えにくい」
「まああいつらもそれだけが取り柄だからね、あれは・・・と、これでよし。もう少ししたらこの工房は崩壊を始める。忙しいなら、もう行ったら? ボクはこの工房の崩壊を見届けてからいくよ」
「よし、ならば任せた。また他の工房で会うとしよう」
「はいはい。来る時はお土産をよろしくね」
「気が向けばな」
そうしてまずヒドゥンが姿を消し、その後しばらくして崩落音と共に、工房が全壊を始めた。山脈の地下につながる洞穴を利用して作られた工房だったが、壊れるときにはちょっとした山崩れとなり、一帯の生き物達は騒然となった。洞穴はもうもうと埃と土煙を上げると、やがて煙が収まるころには何も動く物体はなくなったのである。
アノーマリーはそこまでしっかり確認すると、転移の魔術で消えた。そこにおいて初めて、エスピスは大きく息を吐き出したのである。その顔をリネラが睨む。
「エスピス、なぜ邪魔をしたのですか?」
「馬鹿な、あそこで近づいてみろ。我々は消されている」
「ふん、臆病な。結果的に何も掴めていないではないですか」
「この工房は崩壊した。それで十分だ。それが指し示す結果とは何か、お前にもわかるだろう?」
「ミナール様が敗北したと? そんなことは信じられない」
「だが事実だ。ミナール様は出てこず、中からは敵だけが生還した。それが全てだ。それに全てを見届けた者はちゃんといる」
「・・・報告、して・・・も、いい、か?」
エスピスの背後から『犬』がふっと現れた。突然の出現に思わず一歩後ずさるリネラ。彼はいつもこのように登場するのだが、リネラは何度やられても慣れないのだった。エスピスも一見平静ながら、肩は一瞬びくりと強張るのだった。だが彼は大司教補佐らしく、つとめて威厳があるように頷いて犬の発言を促した。
「で、は・・・工房、内部・・・にて、大司、教は戦闘の、末死亡・・・敵、の損失、は・・・工房、一つ。以上、だ・・・」
「馬鹿な! 大司教が死んだだと!? 適当なことを言うな、犬!」
「言って、ない・・・俺の報、告は・・・正確、だ。なん、なら・・・どうや、って、食い荒ら・・・された、まで、喋る、か?」
「う」
『犬』の報告にリネラは黙りこくった。対してエスピスは冷静に、内心はどうあれ、彼に話しかけた。
「事態は理解した。我々はこのままミナール様の任務を引き継ごう。犬は一度アルネリアに引き上げ、以後の指示を仰いではくれないだろうか」
「了解、だ。一応、大司教・・・の、遺言は、預かってい、る。これ・・・を、先行して、届け、よう」
「うむ。後任に関してはなんとなく想像がつくが、念のためな。ではここで別れよう」
エスピスの言葉に、『犬』は返事もなく消えた。彼が何者なのかは実はエスピスもリネラも知らないが、仕事だけは正確であった。任務はきっちりやり届けるだろう。
エスピスもまた敵の追撃に向けて、準備を行おうとする。そのローブを、リネラがくいくいと引くのだった。
「エスピス、追撃をするつもりなのか?」
「もちろんだ。任務だからな。そのために爆発用途以外の種類の粉をばらまいたのだ。奴らが気がつかぬうちに、私は追撃を行う。そのための追跡用の粉だ」
「ミナール様が手も足も出なかった相手に?」
「もちろんだ。それが何か関係があるのか?」
「いや、ないが・・・」
リネラは不安を隠せないようだった。エスピスとリネラはミナールの元で働いて長いが、互いに淡々と任務をこなしてきた。それなりには話し合いの場を持ってはいるが、無表情で働くリネラがこのような態度に出るのは初めてだった。それだけミナールの存在が大きかったのだろう。何かあっても、後ろにはミナールが控えているという安心感が今はない。
だが現在はこの二人の肩に全ての責任がのしかかっているのだ。相手の大きさにリネラが不安を抱えても無理はない。エスピスとて、今任務の事を考えねば悪い発想しか出てこないのだ。
「エスピス。ミナール様で無理だったものが、我々に務まるだろうか」
「無理は承知だ。だが、我々がやらねばその脅威はいずれ普通の市民に及ぶ。我々がアルネリアに属しているのは、不条理な脅威から民衆を護るためだろう?」
「そう、だがな。私も命は惜しまないが、我々が奴らに利用されるのを恐れるのだ」
「そうだな。だが、万一の時は・・・」
そこから先はエスピスは言葉にしなかった。万一の時。彼らはいつでも自らの命を絶たなくてはいけない。自分達が自ら民衆の、アルネリアの敵となる事態だけは避けなくてはいけない。
死ねば積み上げた研鑽も経歴も一瞬で泡のように消える。それでも彼らは望んでこの任務に就いた。自分が死んでも、代わりはいる。自分達は駒なのだと、彼らは常々言い聞かせてきた。だがそれでも。
「・・・自分が生きた証だけは残したいものだと、今初めて思う」
「私もです。辞世の句でも考えましょうか?」
「それは私に文才がないことを知っての皮肉か、リネラ?」
「さあ。とりあえず互いに生きていたら火酒でも傾けましょうか」
「私は下戸だ。せめて果実酒かお茶にしてくれ」
「ご随意に」
リネラはそういえば組んで長いこの男の嗜好など今まで一つも知らなかったと、ふっと可笑しくなって笑った。今まで我々は何をしていたのだろうと。少しは人間らしい生活にも、目を向けるべきなのかもしれないと。我々は駒ではない、血の通った人間なのだ。人間のまま戦い、人間のまま死にたいと、初めて思ったのだ。
だが彼らはまた仕事に戻る。それが彼らの使命だから。明日をもしれない任務へと向かう彼らの、その背中は覚悟と決意に燃えていた。
続く
次回投稿は、2/12(日)17:00です。