愚か者の戦争、その25~末路~
「人生を、やり直そう」
赤ん坊は語った。その背中には蝶のような羽が生えてくる。
「もはや記憶はない。自分の名前もわからない。だが、人に虐げられた事は覚えている」
赤ん坊が一つ羽ばたくと、その体が宙に浮いた。
「私は人の幸せを願っていたはずだ。なぜ私は虐げられた?」
赤ん坊が、中にマグマを滾らせる静かな湖面の様な瞳をうっすらと開き、語る。その赤ん坊の問いにピッカートは黙っていたが、あえてラインは答えた。
「さてな。お前の考える幸せが、他の人間にとって幸せとは限らん」
「幸せを望むのは悪いことか?」
「俺に難しい事を聞くんじゃねぇよ。俺にわかってんのは、お前をここで倒さないと死人が増えるってことだけだ」
ラインが剣を構える。それに続くようにピッカートも構え、テトラスティンの使い魔であるネコは悠然と佇んでいた。
赤ん坊はピッカートではなくラインをゆっくりと見ていたが、やがてその瞳が徐々に赤くなる。
「私は、死なない」
羽ばたきが大きく、せわしなくなる。
「私は死にたくない。こんどこそ生き延びて、多くの者に幸せを与えなくては」
「これは・・・敵として危険性があるのか?」
ピッカートが一瞬赤ん坊の意図を疑うが、ラインは違った。
「よお。お前の考え『幸せ』ってやつを聞いていいか?」
「何を当たり前のことを。全員心の臓を貫き、首を刎ねることではないか」
「なっ・・・」
ピッカートが驚いた。だがラインはどこかでその可能性を考えていたようだ。さして彼は驚いてもいなかった。
「なんでそれが幸せんなんだ?」
「私は一度死んだ。そこには何もなく、ただ静かな世界が広がるのみだった。憎しみも、後悔も、差別もない。あそこでは全ての人間が平等だ。あの静かで穏やかな世界を皆にも見せてやりたい。私が生きて苦しむほど、他の人間は幸せになれる。だから私は死にたくない」
「・・・なるほど、こいつはイカれてるな」
ラインは剣を一つ振った。その傍でネコがラインに話しかける。
「おい、傭兵」
「なんだ?」
ネコが話すと言う事実に、ラインはさして驚かない。ネコはラインに忠告する。
「私から一つ忠告だ。アレの力は大戦期の魔王に近いだろう。近年に現存するチンケな魔王などとは比べ物にならんほど強い。長ずれば大魔王となるほど、いや、今でも下手をすれば限りなくそれに近い逸材だ」
「だから?」
「悪い事は言わん、下がれ。エスメラルダならば仕留められる」
「で、この子どもは見捨てるのか?」
ラインがピッカートの頭をぽんと叩く。その態度にピッカートは少しむっとした。
「子どもって、私はそろそろ30近いのですが・・・」
「正義感か?」
「違うな」
ピッカートの言葉は無視され、ラインは話を続けていた。ピッカートは文句を言いたかったが、話も場面もいたって真剣であったため、さしもの彼も何も言わなかった。
「あいつは俺が斬ると約束した」
「まあ自殺は止めんよ」
「生憎と勝算のない戦いはしないクチでな。ダンサー!」
「いつでもいいぞ、マスター」
ラインがダンススレイブを抜き放つ。ラインがダンススレイブを振るうのは実はそう珍しいことではない。ラインは最初にマンイーターとの戦いでダンススレイブの危険性を認識していたから、より何度もダンススレイブを振るう鍛錬をした。
自ら扱う武器を知る。これは戦う者の基本である。だがラインはダンススレイブの魔剣としての性能は把握しつつも、ダンススレイブの過去は聞かなかった。興味はあった。だが聞くのは躊躇われた。ダンススレイブの性能を考えれば、過去にどういう扱いを受けたくらいは想像がつく。彼女が折に触れてはその一端を話す事もあったが、ダンススレイブの悲しみは、剣の束を通して十二分に伝わって来たから。
だからラインはダンススレイブを使う事を遠慮した。これ以上ダンススレイブに戦いを経験させたくはなかった。だがダンススレイブは契約したら最後、使用者が死ぬまで決して離れることができない。そしてラインはダンススレイブに触れた段階で契約が完了してしまっている。つまり、ラインと共にいる限り、ダンススレイブは嫌でも戦いに巻き込まれるのだ。
それでもラインは簡単に戦いをやめることはできないし、まして死んでやる事は出来ない。そして必要とあれば彼はダンススレイブを振るった。そうした事が必要に迫られれば出来てしまう自分に吐き気を覚えながら。
剣を抜き放ったラインを見て、テトラスティンは不思議な感覚に見舞われた。理屈ではどうやっても剣一本で太刀打ちできる相手ではない。過去には魔王を倒した剣士の話があるが、彼らは魔術を使うか、集団で挑んだか、あるいは魔眼などの特殊能力を備えていた。純粋な剣士が魔王を倒すなど、聞いた事もない。
「何を剣一本でやろうと・・・まさか?」
テトラスティンが思考を巡らせた時には、ラインは既に動いていた。ピッカートすら見失うほどの速度。かつてムスターであった魔王に疾風のごとく突撃したラインは、その腕を簡単に斬り飛ばしていた。赤ん坊もまた、腕を斬りおとされてからその事実に気がつくほどの速度。
「いっけね、目標がそれちまった」
「やはり我の扱いはまだまだだな」
「やかましい、じゃじゃ馬め」
「そのじゃじゃ馬女一人くらい扱えなくては、甲斐性が知れるぞ」
「誰が女だ、誰が」
二人は冗談を言い合いながら、剣を構え直す。その彼らを見ながら、テトラスティンが呟いた。
「あれは・・・まさか魔剣ダンススレイブか」
テトラスティンの顔色が変わった。ラインの先ほどの動きを見て、テトラスティンは剣の正体がわかったのである。
魔剣ダンススレイブ――使用者の身体能力を極限まで高める魔剣。使用した者は、およそ地上の生き物とかけ離れた身体能力を得る。例えば人間が使用した場合、走れば馬を彼方に置き去りにし、腕力は巨人族を軽く投げ飛ばし、剣を振るえば竜の鱗を布のように切り裂くとされる。また五感も研ぎ澄まされ、目は一つ離れた町の蝿の動きを捕え、耳は10人の会話を聞きわける。ダンススレイブの所有者は生物としての能力を、限界以上に引き上げる事を可能とする。
だが反動もまた大きい。過剰な身体能力は、反動により使用者の体を壊す。いかに動けようとも、その衝撃を受け止めるのは使用者の体なのだ。また研ぎ澄まされ過ぎた五感もやがて限界を迎える。過敏になりすぎた目は光を失い、聞こえすぎる耳は全ての音を拾い始める。そう、10軒離れた家の桶に落ちる水の音さえ。舌は全ての食べ物が砂を噛むように無味となり、死んだ嗅覚は季節の変わり目すら教えてくれない。そして最後は恋人の手を握った感覚すらわからなくなる。
ダンススレイブを使い続ければ廃人――これがダンススレイブが魔剣と呼ばれたゆえんである。そして彼女の使用者は例外なくぼろきれのように死んでいったのだった。
そしてその魔剣を構えたラインを見て、この事態に新たな魔王となったムスターが危険を感じとる。
「おぎゃああああああ!」
「くっ、なんて叫び声だよ」
その咆哮の様な泣き声に周囲の木々が揺れる。そして赤ん坊は宙を飛ぶのを止め、四つん這いになるように地上に着地した。するとその羽は一際大きく広がり、口が羽の中に無数に出没する。さらにその口の部分は地上にぼとぼとと落ち、球に口のついた肉塊となった。
「ギ、ギギギ」
ほどなくして、呻き、歯を鳴らす肉塊から足が生える。その足はみるみるうちに発達し、まるで昆虫のような長距離瞬発を可能にする、異常に長く太腿が発達した足となる。その奇妙な生物がラインを敵と定めた。
「ライン、来るぞ!」
「んなこたわかってる」
ダンススレイブが心配した通り奇妙な生物が溜めを作り、一斉にラインに向けて突撃し始めた。矢よりも速く迫る無数の口にラインの身は細切れにされると思われたが、ラインの体を口が突きぬけて行ったのだ。
「ギ?」
「遅えよ」
無数の口はラインとすれ違いざま、全てが両断されていた。口が噛みついたと思ったのは、ラインの残像だったのだ。ダンススレイブの所有者は矢の雨が降り注ぐ戦場すら、その中を悠然と歩いて敵に斬りかかると言われている。この程度の数は今のラインにとって苦境でも何でもない。
その光景を見た赤ん坊の警戒心がさらに上がる。今度は羽から無数の突起物を伸ばそうとする。ほとんど予兆のない攻撃。だからこそ先ほど騎士の多くは串刺しにされた。だがラインは羽から突起物が伸びる瞬間すらしっかりと目で捕えていた。無数の突起物の間隙を、ラインは見事に摺り抜けて赤ん坊に突進しようとする。
「ギャアアアアア!」
「!」
だがそれが赤ん坊の誘導だった。突起物の中を摺り抜けることで、逆に躱すスペースを失くしたラインに、赤ん坊の口から吐き出された巨大な火球が迫る。
「だから、無駄なんだよ」
暑く燃え盛る、庭園を一撃で炎の海に包むほどの火球を前に、ラインはそれでも冷静だった。ラインは躊躇なくダンススレイブで火球を両断したのだった。それがさも当然とでも言わんばかりに。
ラインが両断した火球が後ろの庭園に激突し、庭園は火に包まれた。燃え盛る炎を背後に剣を握ったラインは、まさに鬼神にしか見えなかった。
「なんだ。なんなのだ、お前は!」
「ただの名もない傭兵だよ。ただのな」
赤ん坊が恐怖におびえながら次の行動を起こそうとした瞬間、目の前に来たラインが赤ん坊の胸を深々と突き刺していた。
赤ん坊は自分が貫かれた事を確認してから、ラインの目を見る。
「私を一度突き刺したくらいで・・・」
「知ってる、急所は三つあるんだろ? 鼓動が三つ聞こえたもんな。だから、全部刺しておいた」
「は?」
赤ん坊が再び自分の体を確認すると、確かに体には三つの貫かれた後があった。何の事はない。ラインの突きが速すぎて、赤ん坊は自分が貫かれた事さえ認識できていなかったのだった。
「馬鹿な・・・こんなことが」
「馬鹿も何も、これが現実だ。おおよそ現実なんて馬鹿げたもんだ」
「なぜだ。これで私の人生は終わるのか? 生まれ変わって、これからやり直して・・・ここで死んだら私の人生は何だったのだ?」
赤ん坊が縋るような目でラインを見る。だがラインは憐れむでもなく、蔑むでもなくその目をじっと見据えた。
「んなこと知るかよ。人生なんてのは不平等だ。やり直せるなら俺だってやり直したいさ。だけどそんなことは誰にもできねぇ。既に起きた事をなかったことにするなんてな」
ラインの胸に悲しみが湧くのを、ダンススレイブは彼の手を通して感じていた。
「人を利用して一生うまい汁を吸う奴。どんなに出来た人間でも、一生人に利用されるだけの奴。色んな奴がいるさな。だけどな。結局は自分が自分の人生をどう思えるかだ。確かにお前の人生はロクでもねぇさ。聞いた俺でもそう思うんだから、お前にとってはもっと不条理だと思ったのかもな。だがよ。そんなお前の人生は、全て不条理なだけだったか?」
「・・・何?」
「最後にお前に受け取った箱の中身、ちゃんと見たぜ。アレはこの国の王の証である印章だったな。予定は変わったが、あれはお前からの贈り物だったとちゃんとレイファンに伝えるよ。お前の兄は狂人だったが、それでも妹だけはいかなる時も大切に思っていたとな。それすらもお前はなかった事にしたいのか?」
その言葉を聞いて、赤ん坊の瞳に一瞬だが正気の色が戻る。その瞬間、ラインは赤ん坊を八つ裂きにしてとどめを刺したのだった。
救いのないムスターの人生を思い、ラインの気持ちは沈んでいた。それでも、転がった首の死に顔が安らかなのは、多少なりとも彼が救われたのではないかと、ラインは信じたかった。
続く
次回投稿は、8/26(金)22:00です。