愚か者の戦争、その24~生まれ出る魔王~
「気を付けなさい!」
叫んだのはエスメラルダ。だが彼女が叫ぶまでもなく、大方の者が恐ろしいまでの殺気を感じとっていた。
「ぬう」
「これは・・・いけませんね」
ドガロフだけでなくピッカートもいつになく真面目な顔をする。そうさせるだけの殺気が、邪気が、圧倒的な力が周囲を威圧する。
「こいつはやべぇな」
ラインですら背中に冷たい物が流れた。そして全員を脅かし、驚愕させ、その心胆を寒からしめるモノ。あまりに簡単に死を連想させるそれは、ゆっくりと潰れた芋虫から這い出て来る。紫の泉から這い出るそれは、どこか妖しい雰囲気をたたえている。
例えるなら。
死ぬとわかっていても飛び込んでしまう。そういった妖しさを、その光景は放っていた。だがその泉の中から出てきたのは、よく見知った顔であった。誰であろう、ムスターである。
「ムスター?・・・いや、違うな」
「ラインか?」
ムスターがゆっくりと答えた。だがもはや、先ほどラインが一瞬たりとも親近感を覚えたムスターではない。ラインの細胞一つ一つが警告を発する。『こいつは危険だ』と。今だかつてここまで全身が警報を発する事態に出会った事は、ラインの記憶では数えるほどしかない。
「ははっ。魔王の軍隊の中に分隊一つで取り残された時より、よっぽどやべぇや」
「何をぶつぶつ言っている、ライン?」
ラスティが隣で尋ねるも、彼もまた全身に冷や汗をぐっしょりとかいていた。ラスティも素人ではない。目の前にいるモノがどれほど危険かくらい、本能でわかる。
そのラスティの肩をラインは優しく叩く。
「ラスティ、悪い事はいわないから引け」
「・・・お前はどうする?」
「俺は戦う」
ラインはきっぱりと言い放つ。その目には輝きが戻りつつあった。顔つきが、本人も気づかぬままに騎士のそれへと戻って行く。
そんなラインが行動を起こすより、ラスティが彼を止めるより、ムスターが次の言葉をつなぐより早く、エスメラルダは動いていた。
「ブオオオ!」
ボレアスはエスメラルダに言葉で命令されなければ動けないわけではない。召喚された時より以心伝心。本来ならば言葉など必要ともせず、エスメラルダの意志を100%反映して動く、最強の下僕である。エスメラルダがボレアスの名前を呼ぶのは、ボレアスをただの下僕以上に可愛がっているのと、後は気分の問題である。
だからエスメラルダが本気になった時、彼女は無言になるのだ。
「む?」
「ゴルゥ!」
ボレアスがムスターを体当たりで吹き飛ばす。たまらずムスターは壁まで吹き飛ぶが、ボレアスは彼をさらに追撃し、何度も何度もその爪を叩きこむ。そう。何度も何度も。
その様子を見守っていたエスメラルダは圧倒的優勢にも眉一つ動かさず、優雅に扇子で自分を扇いでいた。
「ピッカート」
「はい。撤退、でございますね?」
「そうだ。アレとやるには準備が足りな過ぎる。ここは一時撤退し、準備を整えるのが得策だろう。我々は殿だ」
「承知いたしました」
ピッカートが恭しく頭を下げ、騎士達の誘導を始めた。ドガロフはエスメラルダを護る位置に立つ。圧倒的優勢になぜ撤退するのかと騎士達は不思議に思ったが、勘の良い者は既に気が付いていた。
もちろんラインも気がついている。
「無理なのか?」
ラインはエスメラルダに話しかける。その彼を横目でエスメラルダはちらりと見た。普段なら召喚中に他所者と話す彼女ではないが、彼の真剣な表情に対等に話ができる者と判断したのか。彼女にしては珍しくまっとうに返事をした。
「無理ね」
「それほどか」
「それほどよ。私が戦ってきた相手の中でも、5指に入る大物よ。一番ではないけども」
「俺の中でも一番じゃねぇがな。それでも大物だな」
エスメラルダとラインは、奇しくも頭の中で同じ立場のものを想像していた。彼らにとっての師匠。それ以上の実力者を、彼らはまだ見たことがなった。そのうち撤退がほぼ完了する頃、ボレアスの手がピタリと止まった、止められた。
「じゃれつき過ぎだ、風の使い魔よ」
「ゴルゥ?」
ボレアスの爪を押さえたのはムスターの腕。彼のお世辞にもたくましいとはいえない腕が、ボレアスの爪を止めているのだ。
「中々だが・・・むん!」
ムスターが一つ力を込めると、バランスを崩したボレアスは後ろに倒れてしまった。慌てて起き上がるボレアスの顔面目がけて、ムスターが手に光球を作り出す。
「へえ」
「いけない!」
アノーマリーは感心し、エスメラルダは焦る。エスメラルダはムスターが魔術を使うのを見ると、慌ててボレアスを反召喚した。自分で召喚した召喚獣が倒されると、召喚獣が失った部分は自動的に術者の魔力や体で代償される。ボレアスほどの強大な存在を消し飛ばされたら、エスメラルダの体は跡形もなく消えてもおかしくはないのだ。
エスメラルダの反召喚とムスターの魔術が同時に発動し、間一髪でエスメラルダは難を逃れた。彼女が焦る様子を見て、薄く笑うムスター。
「ふ・・・」
「何がおかしい!?」
エスメラルダが馬鹿にされたのかと怒りと共に反論するも、ムスターの反応は薄かった。彼の唇は他の何者も気にしないかのように、自分の調子でゆっくりと動く。
「なぜ笑うかと? それは可笑しいからだ。ワシがまだ全力を出していないのに、その慌てようだからな。これから全力を出したら、貴様達がどのような反応をするか・・・想像しただけで笑えんか?」
「なん、ですってぇ?」
エスメラルダは怒りと共に恐ろしさで震えた。屈辱に怒るのも彼女ならば、冷静な判断力でムスターの言葉が真実だとわかっているのも彼女だった。
その彼女を見て、ピッカートが前に出る。
「お下がりを、お嬢様。私が時間を稼ぎましょう」
「・・・一時撤退するわ。ドガロフ、アレを準備なさい」
「承知でございます」
ピッカートを盾に、撤退をもくろむエスメラルダ達。そこにネコの使い魔がやってくる。
「エスメラルダ」
「会長?」
エスメラルダが自分の師匠の使い魔に気がつく。ラインはその展開に何がおこっているのかわからず、注意深く見守るのみだ。
「何をやる気だ?」
「四柱召喚で一気に潰します」
「ふん、それほどか」
準備が終わるまでに、足止めをしているピッカートは高確率で死ぬだろう。テトラスティンもその決断がわかりながらも、ムスターを倒すにはそれが最も可能性が高いと判断した。
だがテトラスティンはそれがわかりながらもエスメラルダを止めなかった。ピッカートはエスメラルダの従者であるし、テトラスティンとしてもここでクルムスに恩を売るとして、ピッカートの命一つならやすいとさえ思っている。
リシーを戦わせる事もできるが、テトラスティンとしてはそれは避けたかった。リシーはライフレス達に対抗する切り札である。こんなところでその実力を明らかにするのは避けたかったのだ。エスメラルダもまたそんな自分の師の意図を理解できるからこそ、何も言わない。
「では会長、準備をしますので」
「いいだろう、だがお前はここでは死ぬな。それでは割に合わん」
「それはどうも」
テトラスティンの言葉に皮肉交じりに返事しながらも、エスメラルダは下がって行く。四柱召喚は代償も大きい。一つ間違えばエスメラルダも無事では済まないのだ。
そしてドガロフと共に下がった彼女。後にはピッカートが残るが、対峙したムスターの様子が変わる。
「ふむ、相談は終わったか?」
「ええ、あなたの足止めは私がやりましょう」
「それはおそらく無理だろうな」
ムスターは優越感ではなく、冷静に分析した言葉を出した。
「今から私は一段階強くなる。それまでに先ほどの女が我が身を省みず、持ちうる最強の術を使うのが正しかった。これから使う術も相当なのだろうが、その詠唱中にワシが女を仕留めることになるだろう」
「そうさせないための、私です」
「だから、それが無理なのだ」
ピッカートが一瞬苛立ちを覚えた瞬間、その感情は恐怖へと変わった。それだけの異様な気を、ムスターが放ち始めたのだ。
そのムスターが、ちらりとラインの方を見た。
「ふむ?」
「・・・なんだ」
「妙な感じだ。お前の名前、先ほど言ったはずなのにもはや思い出せん。これからワシは別の存在に生まれ変わるのか、記憶が真っさらになるのだろうな。お前はワシの部下か友だったのか?」
「多分、どっちでもねぇよ。ただ、俺はお前を斬るだけだ」
ラインはそっけなく言ったし、それは彼の中で真実でもあった。だが、寂しさをなぜ自分が覚えるかは、ラインにもわからない。
そんな彼を見て、ムスターが知らず笑う。
「だが・・・なぜか貴様には親しみと、これは信頼か? を覚えるな。私を斬るか」
「ああ、斬るよ」
「なら、そうしてもらおう」
その言葉を最後に、ムスターの体が二つに割れた。脱皮というには凄惨な光景。血飛沫と共に自分の体を脱ぎ捨て出てきたのは、全く別の存在。その姿は子ども程の大きさでありながら、姿は赤ん坊だった。
血飛沫を全身で受け止めながら、生まれ出でた赤ん坊が慟哭の声を一つ上げた。空気が大きく震え、ピッカートは一つ後ずさる中、ラインはその冷静さを深めていった。
そして、目も開かず皺だらけの完全な化け物かと思われたその個体は、人の言葉を流暢に話してみせたのだ。
続く
次回投稿は、8/25(木)22:00です。