開戦、その289~夢の跡と笑う者㊾~
フードの人物はエネーマの千切れた腕を見ると、首を傾げていた。まるで壊すつもりはなかった、玩具の人形の腕を見るように。エネーマは千切れた自分の利き腕に、わずかな感傷を抱いた。絵筆を取らせれば画家として生きてゆけると言われ、細剣を持たせればたいていの護衛は相手にならず、魔術を放たせれば教えた方が舌を巻くほどの精度で扱えた。いかなる細かな要求にも寸分の違いもなく応え、いかなる苦難にも自らを助けてくれた右腕。その右腕が失われる想像は恐怖であると同時に、もちろん可能性の一つとして、いつも考えていたことだ。
だから、自分の腕を奪うだなんて真似をした相手には、これ以上ない苦痛をくれてやると決めていた。血はあえてまき散らした。相手のローブにもかかっているのをエネーマは確認する。準備は十分だった。
エネーマの千切れた右腕が痙攣を始め、フードの人物の手を握り込んだ。フードの人物はエネーマの腕を離そうとしたが、まるで死後硬直したように強い力で握り込まれ、決して離れようとしない。
「成長しなさい、《棘呪縛》!」
右腕が千切れたことが魔力の供給が途絶え、右腕の中に埋め込んでおいた辺境の植物の種子が解き放たれた。触れた獲物の肉に食い込み、血を吸って成長する吸血植物だ。かつて襲われた時に、あえて一部をそのままにしておいたのが今役に立つ。
エネーマの血に反応するように調整された種子は、あっという間に成長してフードの人物に襲い掛かる。どんな鎧や衣服の隙間からでも滑り込んでくる凶悪な植物だ。避けることは不可能。しかも触れた後で逃げようとすると、内側に向かって棘を飛ばし、一つでも刺さればそこからさらに発芽を遂げる執念を持つ。
もしこれが効かないとしても、問題はない。もんどりうつ格好で蒔いた血には、他にも意味がある。
《発光!》
血を媒介に、光の魔術を使用する。洞窟での光源にも使用するが、魔力を込めて放てば目くらましにもなりえる。
あたり一面が光り輝くと同時に、エネーマは左手でネックレスを引きちぎり、強引に転移魔術を起動しようとした。普通ならば魔法陣を描いて周到に準備をしてから使用するものだが、魔力を込めた触媒と、正確な魔法陣をあらかじめ仕込んでおけば起動は可能だ。これは、その簡易版。いざという時の脱出手段だ。
起動まで一呼吸も不要。魔法陣が広がろうとしたその瞬間、突然弾けて崩壊した。確実に脱出できるはずのその手段は、左腕の激痛と共にあえなく無駄になった。
エネーマの左手に穴が空いていた。腹に一撃を穿った魔術が、またしても放たれたのだ。これだけの光の中、視界がないはずなのにどうして正確に触媒だけを穿てるのか、エネーマにはわからなかった。
壊れた触媒から溢れる魔力を幾分か回収し、咄嗟に《光縛牢》の魔術の変換し、相手に投げつける。フードの人物は成長した植物を強引に引きちぎり、光縛牢の魔術も腕を振り払って強引に叩き壊すと、一瞬で間を詰めてエネーマの喉を片手で締め上げ、そのまま宙づりにした。片腕がないとはいえ、仕込みの装備などでエネーマの体はかなり重い。とても目の前の人物の細腕で持ち上げられるような重さではないはずだが。
そのまま万力のような怪力で、エネーマの首にフードの人物の指が食い込んでいく。詠唱はできない、左腕も動かせないよう固定された。バタつく足は何も相手に有効な一撃を与えられないどころか、相手の膝で片方の足の骨が一撃で粉砕された。
エネーマを追い詰めたフードの人物は、薄く笑っていた。勝利を確信しているのか、それとも嗜虐の笑みなのか。エネーマには理解しがたかったが、それでも一瞬で首の骨を折られたり、首を落とされなかったのは幸いだった。だからエネーマは渾身の力で笑い返してやってのだ。
「?」
「く・・・ら、えっ!」
エネーマの体にも魔法陣が予め仕込んであった。そこに仕込んでおいた魔術――雷撃を解き放つ。ここで雷撃の魔術を仕込んでおいたのは、エネーマにとって運以外の何物でもなかった。先ほど放った魔術の中で、唯一効いたのが雷撃の魔術だったからだ。
フードの人物の手から力が抜ける。そしてエネーマは弾かれるように後方に飛び、崖の淵に飛ばされた。落ちれば必死。だがそこでエネーマは躊躇なく地面に向けて魔術を放ち、崖を崩壊させてみせたのだ。
続く
今日19時ごろ、もう一話いけるかもしれません。