開戦、その286~夢の跡と笑う者㊻~
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「・・・ここまで来れば大丈夫かしらね」
エネーマがぱさりとフードを取って、風に髪を流した。暖かくなり始めた風が、優しくエネーマの髪を撫でてくれる。あまりの気持ちよさに、エネーマは大きく深呼吸をして正常な空気で肺を満たした。戦場の血生臭ささえも洗い流されるような優しい風だった。
隠密行動は元来得意とするところで、勇者ゼムスの仲間となってからも単独で行動することもしばしばあった。絢爛な見た目をしながらも、その気になれば意志一つでその気配をくすませることもできるエネーマは、時に流民の振りをしてスラム街のようなところに潜むこともできる。貴族の子女として生まれたことなど、既に嘘だったのではないかと思われるほどには激動の人生を送ってきた。そんな物思いも一瞬のことで、再び口元を引き締めるエネーマ。まだここは完全に安全な場所ではない。
転移魔術を使い、時に身を潜め、時に変装となりすましで巧妙にアルネリアの包囲網を突破した。途中やや危ない箇所があったが、そこでゼムスが単独行動を主張したので、突然一人となってしまったエネーマだった。
彼とはいざとなれば落ち合う場所だけは決めているので、その気になればまた出会うことはできるだろう。彼の特性と暴力が必要になることもあるだろうが、それは今ではないと考えればかえって好都合だった。ここまで自由になったのはいつのことだろうか。
「さぁて、何から手をつけますか」
死んでいったゼムスの仲間たちに思うところがないではないが、やることは山のようにある。しばらく傭兵としては活動しない方がよいだろうから、まずは手元の金をある程度確保しなくてはならない。そこかしこに隠した金を回収し、ある程度集まったら人を使って情報を集める。
自分が知っている口無したちの符丁を使って、口無したちから情報を吸い上げるのが一番手っ取り早いだろう。彼の中にはアルネリノア直属で動く者と、長らく一つの土地に住んでその場所の情報を集め続ける「草」と呼ばれる者がいる。彼らは互いの顔も知らず、時に家族にすら正体を知らせずに一生を終えることもあるため、符丁さえ知っていれば彼らから情報を吸い出すことは可能だ。
その情報も、ある程度数を集めないと意味のないものになるが、こと情報網においてアルネリアの右に出る組織はいまだないだろう。そもそも、人間の生息範囲を確立したのがアルネリアなのだから、それも当然といえば当然のこと。その利用の仕方を知っているエネーマだからこそ傭兵の世界でも頂点付近にいることができ、そして彼女だからこそわかる違和感があった。
「アルネリアの動きが、今までと違った」
一つに、ローマンズランドに対する包囲網に執念を感じなかった。どうしてもローマンズランドを包囲殲滅したいなら、もっと別のやり方があったはずだ。それなのに、竜騎士たちが脱出するのを、まるでわざと見逃したようにすら感じた。
もちろん追撃はされている。何度か戦闘を行った跡も確認した。だが自分が所属していた頃ならば、確実に殲滅しているはずだ。現に、エネーマが高台から見下ろす先に竜騎士たちはのんびりと駐屯していた。半分くらいの数になってはいるがまだ一軍としての体裁は保てるほどの状況で、傷つきながらも誇りを失った表情ではない。つまり、追い込み方が足りない。
そうそう彼らも野盗のような真似はしないだろうが、これだけの数でも小国の軍を凌駕するだろう。傭兵ギルドでどうにかできるような数ではなく、周辺への影響を考えるのならもっと追い込んでおくべきはずだ。どんなに誇り高い騎士でも、食うに困れば何をするかはわからない。それがわからないアルネリアの指揮官はいないはずだ。
何かを狙って、わざと見逃したのか。ならば彼らが今後どうするかは、知っておかねばならないとエネーマは考えていた。
かつてミリアザールに近いところでアルネリアに所属していたことで人間の裏の世界や軍事にまで詳しく、今またS級の傭兵として辺境や各地の情勢に詳しいからこそ、この状況が歪であることに気づける。
「大陸で私くらいかもね、この歪みに気づくのは」
それとも、自らが歪んでいるがゆえかとエネーマは自嘲気味に笑った。悪人や討伐対象とはいえいたぶりながら殺すことに愉悦を覚える自分が今更正義感ぶるなど、と考えていると、頭上にふと違和感を覚えた。一応風下で身を潜めて、気配を消すための魔術を三重にかけてはいるが、鋭いものは視線すらも感じることはある。そのため気配がしてもうかつにはその方向を見ることはしないが、突如として影が地面に出現したので、反射的にエネーマは上空を見てしまった。
その瞳に映るのは、ありえない光景。
「空に、人・・・?」
飛竜に乗るのではなく、人がただ空に浮いていた。魔術で降下の速度を落とすことはできても、まだ翼を持たない生物の完全浮遊、あるいは浮上の魔術は実現されていないとされている。導師や魔女、黒の魔術士にそのような常識が通用するかは定かではなくとも、転移の気配もなく出現したうえに、明らかにローブをまとった男か女かも定かではない者は座ったままのような姿勢で空に浮いていた。
いや。魔術の気配を感じない以上、そもそも魔術自体を使用していないのではないか。エネーマの全身から嫌な汗が吹き出た。辺境で王種を相手にしたり、全力を解放したミリアザールを目の前にした時以上の、嫌な汗だ。
「私が恐怖? 馬鹿な」
そんな感情があるはずがない。だがもしあるとすれば、それは――未知に対してか。エネーマの考えがそこに至ると同時に、空に浮いている人物がローマンズランド軍以外の方向を振り返った。
その方向からは、土煙。エネーマが目を凝らしてみれば、アルネリアの周辺騎士団が迫っているようだった。
「こんなところにまでもう追撃部隊が? 早すぎるわ」
土地勘のあるエネーマだからわかる。最速で情報を伝達し追撃部隊を近隣から放ったとしても、ここに到達することは理論上不可能なはずだ。先に敵がここに来ることを予想して配置でもしない限り。だがそれならば、最初から伏せ勢で用意すればいい。
だがもし、この間合いで到着するとしたらどんな可能性があるのか。エネーマの頭脳がフル回転した。ローマンズランドの動きを追い、最短の一手を打つ。自分がもしそうできるとしたら。そしてありえない結論にエネーマは至った。
続く
次回投稿は、10/28(金)19:00頃です。