開戦、その217~裏切り者と渇く者㊷~
「ひっ」
「どうした?」
「虫を踏んだ・・・けど、これって」
廊下に這い出る大量の蛆虫。気味の悪さに思わず上げたエルシアの悲鳴に反応するかのように、ブブ、ブブブ、と耳障りな羽音が一帯に木霊する。自由に闊歩する大量の蛆虫を前に、ルナティカが手をすっと挙げた。
「ここで待機。2人、来い」
その声に反応するように一番年嵩の傭兵と、ワヌ=ヨッダの戦士が一人進み出た。彼らと共に薄暗い部屋に踏み入ると、そこには果たして予想通りの光景が広がっていた。
寝台の上には、腐敗した死体が一つ。液状化が進み肉は既になくなりかけ、蛆がそれを食べている最中だった。骨は半分ほどが露出し、衣服は滲み出した体液で赤黒く汚れていた。
ルナティカは足元を這いずる蛆虫を器用に避けると、死体に近寄って簡単に検分する。
「死んでから二か月・・・いや、三か月ほどか」
「掃除する人間も誰もいないのか」
「コロサレタワケデハナサソウダ」
ワヌ=ヨッダの戦士が死体を武器で転がして背中も確認した。毒という可能性は残るが、それは今更どちらでもよいだろう。寝台の傍にあるテーブルの上には、王冠が鎮座している。ルナティカはそれを無造作に拾い上げると、年嵩の傭兵が憐みの目で見つめた。
「王様で間違いないだろうが、仮にも大陸有数の国の王がこの死に方かよ。貧農の三男坊でも、もうちっとマシな葬式を出してもらえるぜ」
「統一武術大会の最中に、アレクサンドリアの使節長が死んだのも納得。誰もこの流れを止める者がいなかった。そう、人間がこの国を動かしていなかったから。ディオーレもさぞかし空しかっただろう」
ディオーレは施設長であるバロテリ公が殺された後、急ぎアレクサンドリアに帰国している。その時にも王に謁見を申し込んでいるはずだが、おそらくはそれは適っていない。そもそも王はその頃には死んでいるか、その直前には死んでいたはず。
ディオーレならば、その段階で自分の国がどうなっているかを感じ取っただろう。100年以上にもわたり、精霊騎士となってまで忠誠を誓い続けた国がこのように凋落する姿を目の当たりにして、どのような気持ちだったろうか。そして凋落したとしても、契約と誓約のうえで、国を正すためにまともに弓引けもしない立場を、彼女はどう感じているのだろうか。ルナティカには想像もできないが、察して余りある苦悩。
ルナティカはまだ清潔な布で王冠を簡単に磨くと、それを持って外に出るように促した。
「行こう。もうここに用はない」
「いいのか?」
「むしろ人間が生きているのなら、この惨状を見せた方がいい。これで諦めもつく者がいるだろうし、やることはまだある」
「ニンギョウドモノ、シマツカ」
ワヌ=ヨッダの戦士の意見にルナティカが頷いたが、それ以上にやるべきことはあったろう。この王冠を誰の頭上に掲げるのか。それ次第でイェーガーの命運も変わる可能性があった。
「(アルフィリースの目論見では、最低ディオーレにこの冠を乗せたいと思っているようだ。それが無理なら味方になってくれそうな王族の誰かに、ということだったが、副長が上手くやっていればそれが叶うのか。最悪、敵になりそうなら王様を始末しなくてはいけなかったけど、そうでなくてよかった。人の口に戸は立てられない。どこからアレクサンドリアの王様を始末したのがイェーガーだなんて漏れたら致命的だし、それにここにいる面子にもそんな重責を負わせるわけには――)」
ルナティカが長い間物思いに耽るのは珍しい。だからこそ気付かなかったのか、はたまた国家への暗殺や潜入が久しぶりだったからなのか、ルナティカは部屋に踏み入った際の違和感を見過ごしていた。
そして部屋から出ようとして、呼んでもいないエルシアとユーティが部屋の中をじっと観察しているのを見て、はっとしたのだ。
「エルシア、どうした」
「・・・気のせいだったら御免。何か変じゃない、この部屋?」
「何かとは、何が――」
改めてルナティカは部屋の中を観察した。そう、襲撃を警戒してはいたが、違和感は自分も感じていたのだ。ただ部屋に入った時の違和感は、やるべきことが頭の中を占めていたせいでおざなりになった。
窓が少しだけ開け放たれ入り口も開いていたせいで、それほどの腐臭はこもっていない。平原に建つ城らしく、流れる風にカーテンがゆれ、病人を慮ってのことか遮光カーテンがゆれてきらきらとした光が明滅するように射し込む。歴代の王の肖像画が壁にかかっていて、凛とした視線を部屋の中に落とす。この視線に常に見張られているようで、ルナティカは落ち着かない気分になる。他にも広い部屋には軍議をできるような大きく豪華なテーブル、ゆったりとしたソファー、それに大きな書棚に本が満載されていた。あとは全身鎧と、剣と盾が飾られているくらいだろうか。
違和感をどこに覚えたのか。エルシアがふと指さした。
続く
次回投稿は、6/3(土)7:00予定です。