大戦の始まり、その69~西部戦線㉞~
王宮内は静かで、暗闇に包まれるというよりは沈んでいた。凍てつく空気は音を伝えるはずなのに、それでも時折吹く風の音以外には、静寂の世界だった。黒緑鋼のせいか精霊のざわめきが地上よりも少なく、夜目もきかない夜はもっと不安なものだと思っていた。
だが――
「アルフィリース、楽しそうに見える」
「え、そう?」
表情がにやけているのが、自分でもわかってしまった。大地が遠い世界では、こんなにも静かなものかとふっと微笑んでしまったのだ。思えば生まれてから精霊が隣にいるのが自然過ぎて、アルフィリースにとって世界は常に騒然としていた。こんなに世界が静かなのは、アルドリュースに初めて封印を施された時以来か。いや、もっと前――物心つく以前はこんなものではなかったのか。
水面に浮かんでは消える月のような記憶を辿りながら、空に棲めば静かな世界が訪れるのかと思うアルフィリース。そういえば、飛竜に乗っている時も静かだったなぁ、だから楽しかったのか、などと考えていると、ふと体が一段と冷えることに気付いた。いつの間にか庭園に出てしまったらしい。
ルナティカも表情には出さないが、かなり冷えているようだ。吐く息が白くなり、唇が青ざめていた。
「ルナ、平気?」
「このくらいは。ただ、長くいると私はともかく、アルフィリースは風邪をひく」
「そうね、少し散策したら引き上げましょう」
高地で庭園を造ることにどれだけ労力がかかるのか。この庭園は誰が世話をしているのだろう、やはり女中たちなのだろうか、それともオルロワージュが手づから? カラミティなら簡単なのかしらなどと考えていると、庭園のはずれに一人に影が佇んでいるのが見えた。
その影に月明かりが射して誰かがわかると、アルフィリースの心は微かに高鳴った。一方で、頭の中では影が警鐘を鳴らしているのが聞こえる。ルナティカも思わず、アルフィリースの袖を掴んだ。
「アルフィリース、よくない」
「何が?」
「アレは血の匂いが濃すぎる。私よりも、レイヤーよりも。今まで対峙したアルマスの暗殺者や、黒の魔術士よりもひょっとすると――」
「大丈夫よ、私は」
即答するアルフィリースが不思議でしょうがなかったので、命令には疑問を挟まず服従するルナティカにしては珍しく質問した。
「なぜそう言い切れる?」
「多分、私たちは似た者同士で、そして真逆の存在だから」
「? どういう――」
「だから、惹かれ合うし見極めておきたい。生涯背中を預けて戦う存在になるのか、それとも――」
「それとも?」
その質問にアルフィリースは答えなかった。地上よりも近く感じる月の光に晒され、どこか妖艶なアルフィリースは影の元に静かに歩んでいった。
「ここにいたのね、ゼムス――」
「アルフィリースか」
ルナティカは彼らに近寄ることができなかった。ゼムスが恐ろしい事は確かだったが、同時に並んで見ると、アルフィリースも同じく恐ろしい者に見えるから不思議だった。あらゆる戦いで勝ち続け、ついには大陸最大級の傭兵団を2年もしないうちに組織し、今や大陸最大の戦端のど真ん中にいる女傭兵。黒の魔術士すら相手どって、彼らを倒そうとしているアルフィリース。その立っている場所は、血の河と骸の山の上のように錯覚して、思わずルナティカは目をこすった。
引き戻さなくてはいけない、ゼムスの隣にいてはとんでもないことが起こるのがわかる。だが同時に、彼らの間に決して割って入れない気がした。彼らは何らかの縁で結ばれている。その結果がどうなるにしろ、自分では割って入ることができないと感じられたのだ。その縁が破滅なのか幸福なのかは知らないが、あの間に割って入るには相応の覚悟が必要だとたしかな予感がある。
そしてアルフィリースは見たこともないほど穏やかな表情で彼と語らい、ゼムスもまた静かにアルフィリースと語らっていた。こんなに血の気配をさせる二人が穏やかに話すとなると、どんな内容の会話なのかは想像もできないし、聞こえもしなかった。ただ、半刻程――ルナティカの体が限界を超えて冷えたためにくしゃみをするまで、彼らは時も忘れて語らっていたようだった。
***
翌日からも軍議は続いた。ただ今度はゼムスとガイスト、軍団も参加し、さらにはローマンズランドの軍人たちを交えた軍議は三日三晩に及んだ。
そこで出た結論――戦争の初手は、交渉。まずは自国民に今後のことを布告し、スカイガーデンから出ていくことを希望した者たちが、安全に移動できるようにローマンズランドは合従軍に特使を送り、交渉を始めた。
人道的配慮とあっては、合従軍も応じないわけにはいかず、この交渉の間に次々と自国民はスカイガーデンを逃げ出すこととなり、人の列が津波となって合従軍を包囲して進軍を止めてしまった。その数の多さに驚いたのは、合従軍だけではなくローマンズランドも同じだった。自国に対する忠誠は国民に少なく、既に愛想を尽かされつつあったことを、ローマンズランド軍は初めて知った。
その事情をさもありなんと眺めていたのは、ほかならぬスウェンドルと、宮廷の重臣たち。スウェンドルが国民の要求や陳情などの裁可を行わず、放置したことで予想以上に民衆の心はローマンズランドから離れていた。実にスカイガーデンの住民半数に相当する、50万近い住民が一斉に離れていったのだ。戦前からの離脱者を合わせれば、さらに多くの民衆がスカイガーデンから去ったことになる。残ったのは、軍を支援する立場にいる者たちや、あるいはその家族たちだけ。
その光景と事実に呆然とする下々の軍人たちをよそに、アンネクローゼはスウェンドルがほくそ笑んでいるのを見た。そう、彼にとっては予定通りの展開だったから。
そして合従軍が国民の避難を待たずに戦端を開くこともまた、何人かの者にとっては予想どおりだった。
続く
次回投稿は、3/26(土)19:00です。