戦争と平和、その677~大陸平和会議十二日目夜⑩~
アルフィリースはその宿舎のうちの一つ、大きくはないが洒落た装飾が施された宿に到着する。その前にいる神殿騎士団に軽く挨拶すると、取り次ぎをお願いした。
中から現れた女中に来訪を告げると、ほどなくして中に通されるアルフィリース。アルフィリースがその使節長の部屋に上がり込むと、穏やかで香しい匂いがふわりと漂っていた。
「こんな夜更けにどうしたのかしら、アルフィリース?」
「夜分に突然すみません、ミューゼ殿下」
イーディオドの女王であるミューゼの元を、先ぶれもなく訪れたアルフィリース。ミューゼは既に寝る準備を進めていたのか綺麗に結い上げた髪をほどいていたが、流れる髪は金色の海のようで、アルフィリースも思わず美しいとは思わずにいられない輝きを放っていた。
これほどの美貌の女性がいまだ結婚もできていないのは、ひとえにその難しい立場ゆえかと考え、アルフィリースは自らの立場に重ねて残念がった。だが、アルフィリースはミューゼを褒めそやすために来たのではない。むしろ、今夜が彼女にとっては大一番の可能性すらあった。
「先触れをくれればもう少しちゃんとした格好でもてなしたのですけど。貴女のことを歓迎しないわけではないけど、マナーは守っていただきたいわ。こんな夜分に急な用事でもできたのかしら?」
「急用、といえばそういうことになりますね。むしろ、この時じゃないとできなかったというか」
「?」
「ですけど、先触れは御免ですね。準備時間を与えて魔術にでもかけられたら、たまったものじゃありませんから」
その言葉にもミューゼの表情は変わらない。アルフィリースは流石だな、と思った。ミューゼは為政者として海千山千の難局を乗り越えてきたのだろう。自分程度の揺さぶりでは動揺すらしないのか――ならば、より強い言葉を投げる必要があると感じていた。
「魔術とは――何のことかしら?」
「宿の装飾物――玄関からここに至るまで、調度品のほとんどに何らかの魔術的作用があります。感情の増幅をきたす、とでもいうのでしょうか。あなたに好意を抱く者はさらに好感度を上げるように。恐怖を感じる者――は、ほとんどいないと思いますが、恐怖を感じる者はさらに怯えるように。そして緊張する者は、貴方の前に出た瞬間、その緊張が癒されるような錯覚を覚えるはず」
「これから就寝するつもりでしたからね。緊張をほぐす香くらい焚いてもおかしくはないでしょう?」
「それ、それです。いかに私が女でも、護衛もつけず貴人のあなたが訪問者に対して寝室で応対しますか? 執務室では準備する時間がなかった。あるいは私に対する準備が足りないと考えた。だから私の緊張を解くためにここに案内した。ここは魔術士における工房ですね。ここに入った人間はあなたに好感を抱かずにはいられない」
「勘繰り過ぎだわ。あなた、疲れているのよアルフィリース」
ミューゼがにこりとしてお茶を注いだ。ハーブの入ったそれはとても良い香りがして、思わずほだされそうになる自分を律し、アルフィリースは失礼のないようにそれをずいとどかしながらミューゼのことをじっと見据えた。そして言いたくはなかったが、強い一言を発したのだ。
「――私、マナーの本を読んだんです。この統一平和会議に向けて、レイファン小王女の護衛として失礼がないように。著者はミューゼ王女、貴女でした」
「そうね、そんなものも編纂したかしら」
「でも、それに見覚えがあったんです。不思議ですよね、初版本なのに。東側の大陸で、貴族と流行の手本とまで呼ばれる貴女が書いた初版本の写しなのに、どうして既視感があるのか。答えは簡単、私と貴女は同じ人間に作法を学んだから。アルドリュースという、最高で最低の師に」
その言葉に、ミューゼから余裕が消えた。カップを持つ手が微かに振るえ、笑みが失われていくのをアルフィリースは確認すると、これこそが正しい手だと確信した。
続く
次回投稿は、3/19(金)7:00です。