戦争と平和、その662~統一武術大会準決勝④~
呆然としたようなセイトの胸を、こつんと叩くバネッサ。
「相手のことを紳士だと思ったことはほとんどないけど、まさか人間じゃなくて、獣人のことを紳士だと思うなんてね。その誠実さ、大切になさいな」
「なぜ棄権した? 体調不良だとは思ったが」
「正直、これ以上暴れると吐いちゃうわ。勝ってもゲロまみれじゃあ、私の評判だだ下がりよ」
軽やかに笑うバネッサに、セイトは目を細めた。
「貴女の技術は驚きの連続だった。いつか教えを請いたいものだ」
「やぁよ。人にものを教えるような人間じゃないもの」
「だが傭兵なのだろう? 対価を支払う。それならどうだ?」
思いがけぬ提案に、バネッサがまた驚き、そして考え込んだ。いつまでもアルマスで暗殺者ができるわけではない。引退後は悠々自適に暮らす予定とはいえ、遊び回るだけでは飽きてしまうだろう。適度に体を動かしたり働くことを考えれば、戦技指導をするのは悪くない選択肢だと思えた。
「なるほど――それもいいわね」
「受けてくれるか?」
「条件が2つ。私が働く酒場までくること、あと酒に付き合うこと」
「俺はそこまで強くないが」
「たしなむ程度でいいのよ、一人で飲む酒はつまらないわ。あとで住所を渡すわね」
バネッサが競技場を降りようとして、くるりと振り返った。
「他の人にばらすんじゃないわよ? 女の一人暮らしの住処なんですからね?」
「――は?」
セイトは一瞬呆気にとられ、意味を理解するとやや赤くなった。それを見てバネッサが微笑む。
「なんだ、まだお子ちゃまか。初々しくてよろしい、早くイイ男になりなさいな」
バネッサは観衆に向けて愛想を振りまくと競技場をあとにした。その時、審判だったアルベルトの方をちらりと見た。
「(近くに寄って分かったけど、あっちは紳士に見える獣だわね。その本性を見てみたかったけど――競技会では発揮しないでしょうね。それでも優勝するだけの実力はありそうだけど――うぷっ)」
バネッサは格好をつけていたが、既に限界だった。観客とセイトから見えない場所までくると、厠に駆け込み、しばらく出てこなかったのだった。
そして女性部門準決勝第一試合、ドロシーvsディオーレ。前の試合の終了に伴い、2人の名前が呼ばれて控ていた抽選会場から立ち上がる。雨に濡れないように2人にはローブが用意されたが、ディオーレはそれを断った。
「不要だ。大した雨ではないし、会場に入る2人がローブで顔も見えぬでは盛り上がりに欠けよう。私はこのままで向かう」
ディオーレが悠然と観客のいる道を歩き、ドロシーはその後ろからついていったが、緊張のあまり右手と右足が同時に出ていた。はたから見てわかる緊張ぶりに、観衆が笑う。
「うわはは!」
「ドロシー! もうちょっとリラックスしろー!」
「は、はひっ!」
小さな田舎出身のドロシーは、そもそもアルネリアの人口や、イェーガーですら常時祭り以上の人の集いで落ち着かないのだ。それがここまでの観衆ともなると、緊張を通り越して空を歩くような感じだった。
「(地に足がついていないな――悪い戦士ではないが、あれでは実力を出すのも難しかろう。一瞬で終わってしまうかもな)」
ディオーレはそのような懸念をしたが、競技場について屈伸をしたり、あるいは顔を叩いていると、ドロシーの緊張が徐々にほぐれていくのがわかった。そして突然、ドロシーが会場中に響き渡る大声を出した。
「わぁあああああああー!!」
凄まじい声量に、観衆が一斉に耳を塞いだ。それはディオーレもだ。アルベルトですら片耳を塞ぎ、顔をしかめている。
そして静まり返った観衆の前で、ドロシーは顔を両手でぱしーんと派手な音がするほどに叩いた。そのまま両手で顔を覆っていたが、その両手の隙間から血がぽたり、ぽたりと滴ってきた。
「む?」
ディオーレが何事かと思うと、ゆっくりとドロシーが両手を離す。血はドロシーの鼻血だったが、それ以上に両手を離したドロシーの表情は不気味なくらいすっきりし、そして集中していた。
「あああ~すっきりしただぁ。いけねぇな、血の気が多くなると緊張しちまって。ディオーレ殿よぅ、お待たせだんべ。血抜きは完了しただから、これで少しはマシな勝負になると思うべ」
「・・・左様か」
青ざめながら威圧感を放ち始めるドロシーを見て、ディオーレは油断なく構えた。この相手は化ける。たまにいるが、機会を経て急激に強くなる戦士を目の当たりにしたことがある。この女性はその類だと、ディオーレの長年の勘が囁いていた。
続く
次回投稿は、2/17(水)9:00です。