戦争と平和、その657~大陸平和会議十二日目朝③~
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「雨か・・・」
エルシアは部屋で一人、空を見上げながら呟いた。昨日の連戦の疲れから、イェーガー内の自室に帰ると泥のように眠ったエルシア。目覚めて空を見上げれば、乾期には珍しい分厚い雲に覆われた空と、しとしとと降り注ぐ雨。
雨をエルシアは嫌いではないが、雨での競技会は想定していなかった。木製のレイピアのしなりがどうなるかは試していないし、投擲武器も感覚が変わるだろう。今からでも試すべきか、いや、競技場の上でなければ意味がないのか。リリアムは雨での戦いは得意なのか、経験が乏しいのか。そんな考えがぐるぐると頭を巡る。
そんな折、コンコンと扉をノックする者がいた。声を出さずとも、エルシアにはそれが誰かわかった。
「レイヤー?」
「・・・よくわかったね」
「足音を消したままよ。ルナティカは扉の前3歩からはわざと足音を立てるわ」
「それは知らなかった」
レイヤーの声は少々の驚きを孕んでいたので、エルシアは少し機嫌がよくなった。
「入れば?」
「いや、いい。あまり体調がよくなくてね。風邪だったらうつしたらいけないから」
「珍しいわね、レイヤーが風邪だなんて」
言ってから気付いたことだが、この幼馴染は力強くはないものの、風邪をひいたり腹を下したりといった体調不良を見たことがなく、頑強さにかけてはゲイルよりもある意味上だった。
たしかに、心なしか扉の向こうのレイヤーの声は苦しそうだった。
「ユーティを呼びましょうか?」
「いや、いいよ。夕方には治まっているはずだから。それより、昨晩はごめんよ。武器の調整をできなかった」
「ああ、そんなこと。それなら私だって疲れ果ててそれどころじゃなかったから、気にしなくていいわ。それより、昨日の戦いを見ててくれた?」
「――いや、ごめんね。でも準決勝進出おめでとう。賞金も大した額になったんじゃない?」
賞金――そういえばそんなものもあったわね、とエルシアは一瞬間を置いてから唸った。本当に失念していたのだが、記憶が正しければエルシアの平均的な一年の収入を軽く上回る額になっているはずだ。
何を買ってやろうか。宝石か化粧品か――そんな雑念を頭を振って払うエルシア。
「――今は関係ないことだわ。それよりリリアムに勝たないと」
「そういえば、賭けていたものね。僕の意志を無視して」
「あ――あれは、その場の言葉のあやというか、なんというか! で、でもそんな無茶なことはしないわよ! せいぜい、一日こき使ってあげるくらいなんだから!」
「だといいけど」
「なんなら、3日こきつかってあげましょうか?」
「それは厳しい。壊れてしまうかもしれない」
「どんな鬼よ、私は」
レイヤーが多少おどけたので、エルシアがふふっと笑った。緊張がほぐれ、頭の回転が切れていくのをエルシアは感じていた。ひょっとしたらそのために来てくれたのか。エルシアはそんなことを考える。
レイヤーは続けた。
「リリアムとの戦い、作戦はある?」
「――ええ、一応は。だけどほとんどが晴天を想定していたものだわ。雨の日のことは考えていなかった。不覚だわ」
「雨ならおあつらえ向きじゃないか」
「なんで?」
「だって、エルシアは雨は昔から得意だろ? ゲイルがつるつる滑って泥まみれになっても、エルシアは跳ねる泥すら避けるように動き回ったじゃないか。あれは僕にもできない」
「そうだっけ?」
確かに幼い頃、雨の日でも構わず遊んでいた気がする。他の子どもたちは嫌がったが、ゲイルとレイヤーだけは付き合ってくれた。ゲイルがあまりに転んで泥だらけになるので、からかうのが面白かった記憶は残っている。
「ゲイルってば、泥まみれになってしょっちゅうオブレスに怒られてたわね」
「エルシアがゲイルの足元に散々物を投げたからだろ?」
「全部踏んづけて転んでたよね。鈍いったらありゃしない」
「間合いと精度が絶妙なんだよ。僕も何度か転んだ」
「そっかぁ・・・使えるわね」
エルシアは新しいひらめきを得たようだ。その言葉を聞いて、レイヤーは扉のむこうで微笑んだ。
「何か思いついたようだね?」
「ええ、試してみたいことができたわ」
「ならよかった。じゃあ僕はもう行くから。今日の夜には武器の手入れに来るよ」
「それって、リリアムに勝つこと前提じゃない?」
「勝たないの?」
レイヤーの言葉にエルシアがはっとした。そして口をきゅっと結ぶと、拳に力を込めて力強く宣言した。
「勝つわ。必ず」
「いいね、それでこそエルシアだ。僕は本当は中立なんだろうけど、やっぱりエルシアを応援するよ」
「百人力だわ」
エルシアはそう言ってからはっとしたが、扉の向こうにいるレイヤーの表情や反応はうかがえなかった。同時に、自分の顔が赤くなっているのも悟られなくてよいと思ったが。
続く
次回投稿は、2/7(日)10:00です。