戦争と平和、その279~悲願㊴~
ティタニアはそれでも声を出すのをすんでのところで止めた。相手に殺意がないことがわかっていたからだ。そうでなければ、いくら気を抜いたからとて刺されるまで気付かぬはずがない。だがもし声を上げたり周囲に気付かれることがあれば、相手は容赦なく殺しに来ることもわかっていた。
刺された場所は致命傷ではない。刃物もせいぜい果物ナイフ程度の刃渡りにしか過ぎない。ティタニアが声を噛み殺したのを見ると、少女は満足そうに微笑んだ。
「さすが剣帝、こらえたか。一刺しでこちらの意図を理解したね?」
「・・・何者、と問うまでもないですね。ウィスパーですか」
「正解だ。もちろん本体ではないが」
少女の姿をしたウィスパーが両手を広げて答えてみせる。手に握った果物ナイフを慣れた手つきで布でふき取り、自らの首に押し当てていた。
「これは取引だ、ティタニア。もし約束を違えることがあれば、この少女は即座に命を落とす」
「その少女が首をかき斬るのと、私がそのナイフを落とすのとどちらが早いと思います?」
「もちろん君だ。だからこうした」
周囲にはいつの間にか十人を超える人間が集まっていた。そしてその全員が首に刃物を押し当てていた。
ティタニアが歯ぎしりする音が聞こえそうなほど、ぎりぎりと歯を食いしばっていた。ウィスパーはあくまで淡々とティタニアに畳みかける。
「良い表情だ。やはりお前は非道にはなりきらんようだな」
「――何が目的ですか?」
「救いのない話ではない。お前はその傷を治療しないまま、明日以降の戦いに望んでもらう。それが雇い主の意向でね。
その傷は治療しない限り、人間では決して塞がらん。その傷が明日塞がっているようなら、今ここにいる人間すべてが命を落とす。それだけでなく、もちろん隠している奴らもだ。合計50人はくだるまいよ」
「棄権しろ、ということではない?」
「そんなことをしてみろ、猛獣の鎖を切って餌の前に放つようなものだ。ここを戦場にするわけにはいかないだろうよ。そしてそれはお前もまた望むところではあるまい。これ以上余計な戦いをするようなら、ペルパーギスが覚醒する可能性が高くなるのだろう?」
ウィスパーの指摘を肯定も否定もせず、ティタニアは頷いていた。
「――よいでしょう。私は治療をせず、明日を迎えます」
「黄金の大剣、預かろうか?」
「そこまで知っていますか。誰の情報です?」
「それを言うわけがあるまい」
「愚問でしたね。ですが預かる必要はない。私は剣帝ティタニア、そして魔術士でもある。取引を交わした以上、それを破るようなことはしない。なんなら誓約をかけましょうか」
「それには及ぶまい。私もこんなやり方は本来好きではないのだよ」
ウィスパーの操る人間達は一人、また一人と喧噪の中に消えていった。そして最後に少女が再び残った。
ティタニアが質問する。
「一つ聞きます。このやり方は雇い主とやらの意向ですか?」
「それも答える義務はないな、想像に任せるよ。ただ、私ならこうすることも想定していたとは思っているがね」
「なるほど。では私からも一つ、雇い主に伝えていただきたい。今は大人しくしていましょう、そちらの要求にも乗ります。ただし、この件に関して誰か一人でもそちらの都合で関係のない人間が巻き込まれるようなことがあれば――その時は私の全力でもってそちらを屠らせていただく」
「――確かに、承った」
そう答えると、ウィスパーは姿を消した。それを見届け、今度こそ周囲におかしな動きをする人間がいないことを確かめると、ティタニアは壁によりかかり腰を下ろした。脇からはまだ血がどくどくと流れ出ている。
「これは――深手ですね。果たして黄金の大剣を使わず、自分で治療ができるかどうか。しかもわざと刃が歪で手入れのできていない刃物を使用しましたか。これでは戻し切りもできない。
世界最高の暗殺者とやらは、さすがに仕事が丁寧ですね」
ティタニアは血を流して青ざめる表情で夜空をあおぎ、大きく息を吐いた後に再度宿に向かったのである。
***
「・・・タタカイのケハイはオサマッタカ」
「何のことかしら?」
「ワカラヌならヨイ」
アルフィリースはベッドの上に座したまま、森の戦士オルルゥを招き入れていた。傍にはライン、ウィクトリエ、エクラなど、主だった幹部が集合している。アルネリアの警護やリサなど依頼を受けた者以外は集合している状況だ。
そして隣にはウルスもいた。まだ身を起こすには至らないが、意識は既に取り戻している。こんな所にオルルゥを入れたのは、アルフィリースは少しでも体力を温存したいのと、オルルゥが急ぎの用事かつ、それなりに長くなると言ってきたからである。
オルルゥは部屋が施錠されたのをちらりと確認すると、自らの得物を隣にいたウィクトリエに放り投げ、自らは敵意がないことを示すために皮でできたローブと仮面を外し、武器をつけていないことを示した。
「コレでタリナケレば、ハダカにナルか?」
「結構よ。女性にそこまでさせるわけにはいかないわ」
「ムリをイッタのはコチラだ。オマエタチにシタガウ」
オルルゥはその場にどすんと座ると、出された椅子も拒否した。まるで捕虜のような扱いを自ら受け入れた形となる。
それを見てアルフィリースが質問した。
「それで、私たちに話とは?」
「ホカデモナイ、カラミティのコトダ」
ラインから話を聞いてアルフィリースは要件だけは知っていた。しかしカラミティの名前が出たことで、やはり緊張感が増す。
オルルゥは続ける。
続く
次回投稿は、1/7(月)23:00です。