戦争と平和、その184~会議七日目、昼⑧~
「人、というよりは女神か精霊の類だな」
男たちが噂するのも無理はない。見たこともないほどきめ細やかな肌に加え、地面に届きそうなほどの長い銀の髪。あれほどの美女ならば噂だけでも聞いたことがあってもよさそうなものだが、耳ざとい商人ですら聞いたことがない。
そしてそんな女がどうして一人で、そして何を目的にアルネリアに向かうのか。それすらもわからないまま、商人は女性をアルネリアに送ることにした。
正直に言えば商人の目的はアルネリアではなく近隣の街だったが、輸送期間にも余裕があったし、少々遠回りをしても罰はあたるまいと考えたのだ。いっそアルネリアまで送ろうと申し出た商人の言葉を、女性は首を振って断った。そしてついに別れの岐路に到着すると、誰が言い出すでもなく、商人たちは女性を見送るべく外に出た。手にはアルネリアに到着するまでに十分な食料と水、それに費用が入った袋を持っている。女性は男たちに襲われていた際、着衣以外の持ち合わせがなかったのだ。
誰が荷物を渡すかで争う傭兵たち。商人はそれを微笑ましく見ながらも、自分があと10歳も若ければ求婚したであろうことを考えていた。いや、あるいは今からでも――そんなことを考えていると、女性がゆっくりと馬車から降りてきた。
女性はいつものようにうっすらと微笑んだ。自分たちが何もしていないのに微笑むとは珍しいと考えたが、その笑顔が今までと少し違うような気がして、商人はなぜか急に危機感を覚えた。
「(・・・? なんだ、この嫌な感じは。そもそもこの女性は何者だ? ただ美しいというだけで名前すら教えてもらえぬし、アルネリアに行きたいというだけで、その目的も知らぬ。もちろん高貴な人間の隠密などの理由も考えられなくはないが、今更ながら何か良くない企みをしているという可能性もあったのでは)」
商人がそんなことを考え不信感を抱いたことに気付いたのか、女性は商人の方に振り向くと、またしてもうっすらと笑っていた。そして今度こそその微笑みにぞくりと嫌なものを覚える商人。
だが商人が何事かを言う前に、女の方が言葉を発していた。
「――ここで、お別れ」
「寂しくなるなぁ」
「そうかい。せめて名前だけでも教えてはくれないか」
「また何かあったら俺たちが護衛するぜ」
めいめい勝手なことを告げる傭兵に、女は薄く微笑んだ。
「名前――チャスカ」
「おおっ、キレイな響きだ」
「どうして教えてくれたんだい?」
「もう――会うことはないから。教えても問題ない」
チャスカがふうっと掌の何かを男たちに吹きつけた。すると男たちの動きがぴたりと止まり、ゆっくりとその体が崩れ落ちていく。一番後方にいた商人はその様を身じろぎもできずに眺めていた。
傭兵たちは一言も発することなく、花が枯れるようにあっという間に干からび、塵に還っていった。逃げ出そうともがく者もいたが、声を上げることはなぜか適わなかった。塵に還っていく男たちが地面をひっかいた跡だけが残ったが、その塵すらも何の感慨もなくチャスカは踏みしだく。
うっすらと微笑みを浮かべるチャスカを見て、商人は初めて気付いた。ああ、そうか。この女は最初から自分たちを人間としてみなしていない。我々が何かを語り掛けたとして、虫の鳴き声に返事をする人間はいない。だからこそ言葉を交わすことはないし、あの表情は微笑みではなく嘲笑なのだと。
助けたと思っていた相手から嘲笑されていたことを知り、商人は最初の自分の直感こそが正しかったことを知った。だがもう全ては遅かった。馬車や荷、馬すらも塵に還っていく様は全ての終わりを示している。自らの誓いを破ったことがこの代償なのだとしたら、あまりに重いのではないか。そんなことを考えながら商人もまた塵に還っていった。
全てが塵となった後、一陣の風が吹いた。全ての痕跡が風に流されていくのを待っていたように、街道には人が戻ってきたのである。
チャスカはその様子を少し離れたところで見届けると、遠目に見えるアルネリアに視線を送った。手には商人たちから渡された食料と水、それに荷物がある。
「良い補充ができた――衣服は趣味じゃないけど。あれがアルネリア。妹を迎えに行かないと。楽しみ、私を殺せる? それとも・・・」
チャスカはくすりと笑うと、アルネリアに向けて今度は自分の足でゆっくりと歩き出したのだ。
続く
次回投稿は、6/29(金)17:00です。




