魔王の工房、その5~悪夢の実験場~
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『犬』に教えられた洞穴から、工房の中に慎重に潜入するエルザとイライザ。最初こそ天然の洞穴の様相を呈していたが、徐々に壁は加工された造りとなっていった。ごつごつとしていた壁が徐々に整えられ、床もまた歩きやすく平らになっていく。罠でもあるかと思ったがここまでは一つたりとも苦労することなく、違和感にエルザとイライザは顔を見合わせる。
さらに進むと、予想通り徐々に天井が高くなった。明らかに何かを造りだすための空間を作成しているのはよいが、人の手では届かぬほどの高さにまで手が加わっているのを見ると、敵の規模や能力は予想をはるかに上回っているのかもしれないなどとエルザは考えてしまう。
洞穴内は清潔で歩きやすく加工されていたが、漂う空気は生ぬるく、体にべたべたとまとわりつくような不快感を覚える洞穴だった。まるで湿った空気に愛撫されているかのような錯覚に、エルザの警戒心は最大となる。
「(この空気、いままで戦ったどんな奴よりも嫌な空気だわ。黒の魔術士とやらは、想像以上にロクな連中ではないわね。今までの任務とは、あまりにも様子が違う)」
国家や都市の転覆を目論む連中を相手したこともあるが、そのどれとも違う空気の悪さに前を歩くエルザが内心で悪態をつきながら、自分の先入観を訂正していく。本来前衛を務めるべきイライザを後方に下げたのは、洞穴に入ってからの空気が想像以上に危険だったせいだ。折あらばイライザの成長のためエルザは監督役に徹しようと思っていたのだが、今回そんな余裕はなさそうだ。
その時、エルザの鼻をつんとつく異臭に気付く。同時に曲がり角からそっと顔をのぞかせながら、後方のイライザを手で制した。大きな空洞が目の前に広がり、多数の生物の気配を感じたのだが、エルザは自分たちに向く殺気がないと感じとると、イライザを促して空洞に向かった。
だが空洞には誰もおらず、生き物の気配はさらに奥から感じられた。空洞はせいぜい深緑宮の一室程度の広さで、何も置かれておらずがらんとしていた。そして通路が三方に分れている。
「道が分かれていますね・・・そして血の臭いですか」
「戦いは避けられないかもね。それで、左、真ん中、右の三路。どの道にするか貴女が決めなさい、イライザ」
エルザがイライザに促すと、イライザは三つの道を見比べる。真ん中の道はかなり大きく、人が通ることを想定したとは思えない大きさだった。対して、右と左は人間が通ることを考えて作られているようだが、イライザは左の道を指さした。
「・・・左です」
「根拠は?」
エルザの結論も同じだったが、イライザの考えを知りたかった。背中を預ける人間の思考回路を知るのは、生き残る確率を少しでも上げるために重要なことだ。
イライザもぼんやりしているように見られがちだが、戦場においてそのような様子は些かも感じない。エルザの意図するところを一瞬で読みとり、淀みなく即答する。
「右と正面には強力な敵の気配を感じます、絶対に進みたくありません。対して左はそこまでの危険性を感じず、また血の匂いが一番強いのが左です。調べる価値はあるかと」
「あなたはセンサーではないでしょうに、それは勘かしら?」
「勘と経験です。私は自分の感性を信じていますから」
即答するイライザ。その顔を見て、エルザが頷く。
「まあ合格かしらね。戦場で一番頼りになるのは自分の勘よ。集団戦ならともかく、個人で動く場合は特に。今回は私も同じ印象だし勘でもいいけども、貴女が将来的に多くを動かすのであれば根拠が欲しい。そうでなければ大軍を動かすのは大変よ。勘だけでは従わない奴らもいるからね・・・見なさい」
エルザが左の道に向かい、しゃがみ込む。地面でエルザが指した部分を見ると、何やら引っ掻いたような後があった。それに指先ほどの何かが地面に刺さっている。イライザがそれに気付くと、エルザがイライザの方を複雑な表情でじっと見た。
「これ、何だと思う?」
「これは・・・人間の爪ですね」
「そうね。つまりここを引き摺られていった人間がいるということ。どうやら爪が剥がれるくらい、地面にしがみついて抵抗した様ね。どんな恐ろしいものが待ち受けているのかしら」
「・・・」
少し脅しつけるようなエルザの口調に、イライザの精悍な顔が少し青くなるのをエルザは見落とさなかった。同時にエルザが洞穴に入る前にも出した小さな棒で、魔法陣のようなものを地面に描いている。
「エルザ様、それは白棒ですか?」
「そうよ。特製のね」
「その魔法陣は何のために?」
イライザの質問に、悪戯っぽい笑みで返すエルザ。
「いざという時の予防線よ。もしこの先進むのがどうしても無理だと感じたら、私に飛びつきなさい。いいわね?」
「? 了解です」
「よし、行くわよ。生存者がいるかもしれない」
「はい」
エルザは恐れを感じないかのように、しっかりした足取りで歩き始める。少し遅れてイライザが続くが、イライザは一度後ろを振り返り、地面に残った引っ掻き跡をその緑の瞳で一度見据え、一瞬だけ渋くなるその表情を整えてから先に向かった。
さらに進むことしばらく。罠の類いは相変わらず遭遇しないが、あまりにも無警戒なことをエルザが不審に思う頃、その疑問が吹き飛ぶ光景に出会った。
「これは」
「広い、ですね」
そこは開けた場所だった。部屋は正確な立方体の形をしており、500人くらいの兵士が練兵できそうな空間だった。だが部屋の中に踏み込んだ2人は、あまりの光景に言葉を失った。
「なんてことを」
「惨い」
部屋には無造作に置かれたベッドがいくつも並んでいた。その上には何体もの生物――人間もそうだが、犬、馬、中には魔獣やオークまでもが無造作に寝転がっていた。どれもこれも体をバラバラに切り刻まれており、中には壁から固定した鎖の様なもので空中に固定されている生物もいる。顔には一様に苦悶の表情を浮かべ、まるで悪霊でも見たかのように顔を醜く歪めた表情で死んでいる者もいた。
地面には太さも長さも様々な管が沢山走っており、それらはベッドの上の生物につながっているが、どういう効果を果たしているのかはエルザにはわからなかった。何やら怪しい液体の入った容器に、管のもう一方が繋がっている。
周囲には檻も沢山あり、開いている物からそうでないものまで。だが共通しているのは、中には何もいないこと。壁にも檻が沢山あるが、そちらの中には何かがいるようだ。声こそしないが、獣特有の息遣い、気配が感じられた。
この光景を見て危険極まりないことはエルザとイライザにも分かっていたが、虎穴に入らずんば虎児を得ず。2人は互いに頷き合うと、覚悟を決めて部屋に入っていく。
「管を踏まないように。私は左、貴女は右を警戒なさい」
「了解です」
エルザとイライザは蒼白な表情で慎重に歩を進める。並大抵のことでは驚かないエルザまで顔色を失っていた。
「(この実験を行った奴の顔を見てみたい。絶対にまともな神経をしていないことが断言できるわ。快楽殺人者、強姦魔、食人鬼、悪霊憑き・・・色んな連中と対峙したけど、これと比べれば誰も彼も子どもだましだわ。死んでる連中の顔を見れば、生きたまま切り刻まれたのがよくわかる。それをこれだけの数・・・しかも何度となく繰り返し行っているのでしょうね。この光景が日常。狂っていなければ、受け入れられるものではない。これが信念に基づく行為だとしたら、それはやはり怨念と呼ぶべきものだわ)」
そのエルザの推論を裏付けるかのように、地面は既に血の後で黒ずんでいた。部屋の入り口付近では地面は壁と同じくこげ茶色のような色だったので、今エルザが歩いている付近は血で変色したのだろう。殺人現場でさえ、中々こうはならない。エルザの警戒度は、いまや最高に達していた。
むしろこの噎せ返るような死の臭いの中で、よくイライザがついてきているとエルザは思う。ちらりとイライザの様子をエルザが見ると、イライザは油断なく周囲警戒をしながら、一定の距離を保ってエルザの後をついてきている。顔面こそ蒼白だが、感情が動作を妨げることはないようだ。
「(さすがラザール家の騎士。女の身で見事なものだわ)」
内心でエルザが賛辞を贈る。その時、イライザがふと足を止めた。
「エルザ様、あれを」
イライザが指さしたのは、地面に置かれた檻に繋がれた女性である。他の死体と異なり、彼女だけは実験でいじった跡がない。だが腹が喰い破られていれば、絶命は確実だった。巻き髪や首の細工を見れば、それなりに高貴な身分だったと思われるが。
だがそれよりも異常だったのは、女が笑いながら絶命していたこと。一体この女性に何があったというのか。今にもその狂気に沈んだ女が顔を上げて笑いだしそうで、その光景を想像して思わず口を押さえるイライザ。
「うっ」
「吐くなら他所でやりなさい、イライザ。しかしこれは・・・」
エルザが女の傍によって傷跡を調べる。その傷跡は中からめくれていた。
「中から喰い破られている?」
「ひどい・・・」
エルザの言葉に思わずイライザが後ずさり、後ろに会った手術台にぶつかった瞬間、イライザの手首をがしりと掴む何か。
「ヒッ」
「助け、て・・・」
手術台に乗っていたのは体を切り開かれた男。心臓こそ見えないが内臓は丸見えで、脳まで見えているのだ。脚はすでになく、腕もよく見れば獣人のそれにすげ替えられていた。男がイライザの手首を弱々しく掴んだが、まさかそんな状態で生きているとは彼女は思ってもいなかったので、手を振りほどくことすら忘れて立ちつくしてしまった。むしろ大騒ぎしなかっただけでも大したものだ。
だが男が目を開けようとした時に、ついにイライザの我慢の限界を超えてしまった。
「娘・・・エルマ・・・助け・・・」
ゆっくりと瞼を開いた男の眼には、あるべきものがなかった。2つの空洞がイライザのいる方を虚ろに見つめる。その吸い込まれるような闇に、思わずイライザは悲鳴を上げた。
「キャアアアア!」
「イライザっ!」
エルザが慌てて背後から口を押さえ、その行為で一瞬で我に返ったイライザも悲鳴を止めたが、時は既に遅かった。イライザの悲鳴に反応したのか、手術台の上の生物たちが一斉に騒ぎ始める。
「ぐおおおおお!」
「痛い~痛い~」
「ああああ~」
「げぶっ、ごふっ」
ベッド上の生物たちが一斉に苦痛の合唱を始めるという、この世とも思えない光景に二人とも凍りついた。エルザにしろ、悲鳴を上げないことで精一杯だった。イライザに至っては、気を失わないようにするだけで必死だった。そんな状態では、部屋の中に入ってきた足音に2人が気付かないのも、しょうがないことかもしれない。
続く
次回は3/12(土)10:00投稿です。