濁流に呑まれる光、その8~少年の動揺①~
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「もうすぐ、もうすぐだぞ・・・2000年以上かけて準備した魔法がようやく発動する。これで――」
オーランゼブルは一人、工房で膝をついて魔法陣を確認していた。眼前には水晶の中に佇む自らの娘。その背後にある無数の水晶を前にして、オーランゼブルは祈るように声を絞り出していた。
オーランゼブルはもう何度もこの魔法陣を修正している。この工房にある魔法陣が全ての起点。起点のずれはやがて増大し、大きな影響となって現れる。一削り、一つの余分な線の影響がどのような結果になるやもわからないのだ。
そのため、オーランゼブルの工房は無人である必要があった。人はおろか、蟻の一匹、塵の一つでも魔法陣を狂わせる可能性がある。生物の徹底排除を行った、魔術による完璧な自動迎撃工房。それがオーランゼブルの工房の本質である。
ゆえに入り口はなく、オーランゼブルは転移魔術でのみこの工房に出入りすることができる。ただ物体の出し入れは必要なので、転移の危険性や発動の余波などを考えると、中から開けるための出口は必要だった。それすらも魔術で何重にも施錠し、開けることができるのはオーランゼブルただ一人だ。
ファーシルも工房の中にいる際には神経をすり減らす。衣服についたゴミ一つで、魔法陣の結果を変える可能性があるのだ。魔法陣がない場所に関してはファーシルも動くことができるが、魔法陣が損傷した場合はファーシルにも修正することができない。一度うっかりして損傷させたとき、自分で修正しようとして悪鬼のごとき形相をするオーランゼブルを見た。咎めがあったわけではないが、逆にその態度こそが自分の価値を示したような気がして、ファーシルはいたたまれない気持ちになったことを覚えている。
以来ファーシルは自らの感情を殺し、かつてオーランゼブルの世話役たちがそうしたように、自分の活動期間を無事にまっとうすることだけに心血を注いだ。そんなファーシルでも、オーランゼブルの計画が成就に近づき、水晶を向き合う姿を見ると目頭が熱くなるのを止めることができない。それは計画の成就に対する安堵と達成感なのか、役目からの開放感なのかはわからない。
ファーシルはそっと工房から足音もなく出ていく。出口から外に向かうと自動で壁は閉じ、防御魔術や隠匿の魔術が修繕されていく。そのところどころに自らも魔術を施し、何重にも重ね掛けをしてようやくファーシルは外に出た。食料は充分運んだし、今のところやることはない。ファーシルが目覚めて200年、この工房の周囲に偶発的に獣が近づくことはあっても、意図的に近づけた何かは存在していない。なのにここまで慎重になる必要があるのかとファーシルは役目を少々退屈なものに感じていたが、ヒドゥンの代役を仰せつかっていたのでその魔術を今日も試してみることにした。
ヒドゥンが離反した今、世界の詳細な情勢を知ることはオーランゼブルにとっても難しい。そのためファーシルは大陸各地の精霊を通じて情報収集をすることにした。下手に使い魔を飛ばせば、使い魔の捕縛からここの場所が割り出される可能性がある。だが地脈を通して精霊と交信するだけなら、まずもって逆探知はできない。ファーシルが精霊の行動や囁きを通じて大陸各所の異変を探る。当然沼地にもそれは及ぶはずだったが、ファーシルが魔術を起動した瞬間、話しかけるものがいた。
「(ファーシル、何しているの?)」
「わあっ!? なんだ、ピートか。脅かさないでくれよ」
ファーシルは偶然知りあったこの混成亜種の精霊をピートと名付け(いくつかある候補からピートが絞り込んだのだが)、自らの使い魔としていた。使い魔にしては制約による縛りは緩く、比較的自由行動が許されているピートである。姿の見えない時にはどこにいるのかは知らないが、ピートに魔術による罠の仕掛け方を覚えさせておけば、簡単な獣程度なら仕留められるので、ファーシルは浮いた時間を使って魔術の開発にいそしんでいた。
誰に習ったわけでもないが、魔術の開発はハイエルフなら息をするようにできると聞かされていたからだ。むしろ強力で役に立つ魔術を開発するほどに、同族からの信頼と尊敬を得られる。ファーシルはハイエルフの本能に従って、魔術開発をしていたのである。
ピートはそんなファーシルを不思議がってのぞき込んでいた。
「(最近ずっとこの魔術を使っているね。そんなに面白い?)」
「面白いのとはちょっと違うけど、便利ではありそうかな。各地の精霊、妖精を通じて世界中の様子を知ることができる。この魔術があれば使い魔なんて使わなくてもいい。面倒な縛りもないし、使い魔を作る手間も省けるだろ?」
「(そうなんだね)」
相槌を打ちながら、ピートフロートは単純に感心し、同時に恐れてもいた。このファーシルは、時代が時代ならオーランゼブルに次ぐ逸材として存在したかもしれない。いや、ハイエルフ自体がそういった種族なのかもしれないが、これほど優秀ならば数人もいれば世界が牛耳れそうではないか。
ピートフロートは古代に君臨した種族たちの有能さに舌を巻きながら、かつて自分がやったようにどうやって利用しようか、それのみに考えを及ばせていた。
続く
次回更新は6/14(水)9:00です。