快楽の街、その282~静かな怒り⑩~
その中で一人、泉に向けて釣り糸を垂れる若者にしか見えない男に向けて、ルヴェールが話しかけた。
「お師匠様、また釣りですか」
「精神修養にはこれがもっともだ。だが君には合わなかったよね、ルヴェール」
「私は編み物の方が好きです。懐かしい話を出して、昔話にでも花を咲かせますか?」
「時間はしばしあるからそれもよいだろうが、君が嫌いな私の元を訪れるのだ。まずは要件を聞こうか」
「お話が早くて助かります。老人は話が長いですから」
「私を老人扱いするのは君くらいだが、たまには若い者に合わせようという気になるのだよ」
アースガルは釣り竿を傍に置くと、湖に手招きをするようにして水のテーブルと椅子を出現させた。ルヴェールも慣れているのか、躊躇なくそれに座る。どういう仕組みなのか、衣服が濡れる様子はない。
そしてアースガルが手を叩くと、妖精の形をした使い魔がふらふらと飛びながら飲み物を運んできた。アースガルはそれをおいしそうに飲んだが、ルヴェールは丁寧に断った。
「『人造妖精』ですか。まだ生命の創造の研究を?」
「いや、あれはやめたよ。創れることはわかったが、アノーマリーを見ていれば結末がろくなことにならないのはわかる。妖精は一定の機能しかもたない使い魔にしか過ぎない。それよりお茶は飲まないのかい?」
「あなたに2回ほど毒を盛られましたからね。あなたが出す一切の飲料、食料は口にしません」
「ひどいなぁ。一度はわざとだけど、一度は事故だよ? まさかあの程度の毒物を魔術で解毒できないとは思わなかったのさ。君はもうちょっと汎用魔術についても学んだ方がいい。魔女の団欒はそりゃあ歪だけど、上手くやれないのは君たちにも問題がある。
彼女たちはほとんど皆死んでしまったからね。これからは君が中心となって団欒を取り仕切らなきゃあいけないんだよ?」
「団欒を開催するつもりはありませんが」
「基本属性の魔女は、それこそ大地が死んで精霊が死滅しない限り、これからも生まれ続ける。団欒という保護機能がない限り、魔術協会がこれから生まれる魔女を占有することになるだろう。利用される魔女の結末をキミは知っているはずだ。その事実から目を背けられるかな?」
「・・・そういう物言いが嫌いなのです」
「ふふ、嫌われたものだ。私がとった数少ない弟子なのにね」
そういうとアースガルは寂しそうに笑っていた。ルヴェールは師でもあり、導師の長とも言われるこのアースガルのことを嫌っている。確かに魔女として能力を活かすうえで師事したことはあるが、ろくな指導をされた記憶がない。
気まぐれで魔獣の巣に連れていかれ、置いてきぼりにされる。魔力が枯渇し、意識を失うまで酷使される。毒物を何の前触れもなく飲まされ、寝込みに部屋を燃やされたこともあった。アースガルとの生活は学びも多かったが、本人にやる気がないと釣り糸を垂らしたまま一年でも動かない。そっと工房を出て独立した時も、三年はそのことに気付かない有様なのだ。いかに導師が優秀でも、世間からも魔術協会の勢力争いからすらも見向きもされなくなった理由がここにある。全員が世捨て人であり、世間の常識が全く通用しないのだ。
ルヴェールもそんなアースガルに付き合いきれず、工房を飛び出した。自分のことはほとんど何も語らないこの師のことを、確かにルヴェールは何も知らない。先ほどの口ぶりでは弟子は自分一人ではなかったのかもしれないが、他の弟子がいたような痕跡もなければ噂も聞いたことがないし、数秘術でも占えたことがなかった。
そんなできれば顔も見たくない相手の元を訪れたのには理由がある。
「確認しておきたいことがいくつか。どうしてターラムの危機に出てこられなかったのです?」
「ふふ、怖い顔だ。誰か近しい仲間でも死んだかい?」
「はぐらかさないでいただきましょう。今回の結末はアルフィリースの機転も考えると、良い方から数えて4番目くらいの被害ではありましたが、あなたがいればもっと被害は少なかった。違いますか」
「いや、違わないな。私がその気になれば、あの悪霊もバンドラスも、仮面の調教師や剣の風さえも消してしまうことは容易だ」
「ならばなぜ」
「危機の認識が違う」
アースガルがぱちんと指を鳴らすと、泉の水面にターラムではない様々な光景が移った。それが何を示しているかはすぐにわからなかったルヴェールだが、やがて一つの共通点に気付いた。
「これは・・・大陸各地の戦場?」
「そう、まあ小さな規模の争いも含めてのことだが、現在把握しているだけでも10数か所で戦争が起きている。実はここ数十年ずっとだ。これが何を指し示すかわかるかい?」
「・・・多すぎますね」
「その通りだ。ターラムのことだけを考えていればよい君と違い、我々導師は大陸中の出来事を観察している。極端な話、私はターラムを愛しているが、私さえ無事なら館すら焼け落ちてもよいと思っている。これだけの魔術を張りなおすのは一苦労だが、できないわけではない。
私たちは魔女の団欒が開催される前からこの事象に関し検討し、結論を得ている。我々も意見が分かれているところだ。オーランゼブルに協力するか、反対するか、傍観するか。ちなみに私は傍観派だが、最も多いのは協力したいと申し出る連中だ。実際、もう協力しているしね」
「馬鹿な、秩序の守り手たる導師が人殺しの片棒を担ぐのですか?」
「何の秩序、ということだ。導師によっては人間が秩序を乱していると認識しているものすらいる。魔術協会のテトラスティンはそのあたりをうまくやっていたが、新しい魔術協会の指導者たちはそこまで頭が回っていないようだ。私も明らかな協力行為は慎むようにと窘めてきたが、それも中々難しい。元々五賢者であるオーランゼブルが我々導師にとっての大いなる指標であったからやむをえないところでもあるが」
「だからといって・・・」
「君はまだ若い、ルヴェール」
アースガルが指を鳴らすと、今度は何人かの人物の顔が浮かんできた。アルフィリース以外は知らない顔だった。
続く
次回投稿は、5/25(木)11:00です。