快楽の街、その275~静かな怒り③~
またぱたぱたと駆け足でアキノが走ってきた。
「はいはい、まだ伝令からの返信はありませんよご主人様」
「そうではないわ、アキノ。他の使用人は今日、誰もいないのかしら?」
「いましたけど、伝令で出してしまいましたわ。今は私とご主人様の二人だけです」
「庭師のカリンカも?」
「ええ、お急ぎとのことでしたので」
「嘘ね、今日カリンカはいないわ。母親の病態が悪化したから、しばらく暇が欲しいと数日前に申し出が私に直接あったのよ。あなたは知らなくても無理ないでしょうけど、ボロが出たわね、アキノ」
「ボロだなんて、そんな・・・私は」
アキノが困惑した表情をしたが、それも一瞬だった。アキノは袖に隠していた匕首を二本同時に投げつけたが、リリアムは苦も無くそれをテーブルクロスを引き抜いて弾いた。アキノは懐から小刀を取り出すと、奇声と共にリリアムに猛然と飛びかかった。
「ケェー!」
テーブルクロスごとリリアムを押しつぶすように飛びかかったアキノだったが、リリアムの姿はそこにはなく、逆に宙に舞ったリリアムから凄まじい速度の連撃が放たれた。たまらずアキノは手に持った小刀を弾かれ、背を向けて逃走を図った。
その足首に向けて、アキノの匕首を投げつけるリリアム。見事命中した匕首はアキノの体勢を崩し、アキノは扉を開けると同時に転がって階段の手すりで頭部を強打した。
「うぐっ」
一瞬よろめいた瞬間にリリアムが駆け寄り、四肢の腱を一瞬で斬って行動不能にした。アキノの胸を踏みつけ動けなくすると、その喉元に剣を突きつけ詰問する。
「無駄かもしれないけど一応聞くわ。誰の差し金かしら?」
「言うと思いますか、ご主人様」
「そう、残念ね」
リリアムは薄笑いを浮かべるアキノの右目を躊躇なく突いた。悲鳴が邸内に響き渡る。
「な、なんてことを」
「拷問の類は幼いころに随分と見たし、自分でもさせられたわ。相手のどこをどう責めれば死なずに痛がるかもそれなりにわかってる。この剣先は細かい動きが可能よ。専用の器具程ではないけど相当苦しむわ。長年のよしみで話せばすぐに死なせてあげる、どう?」
「お優しいことで」
だがアキノはあっさりと舌を噛み切った。リリアムがその動きに気付いた時にはもう手遅れだった。どうやら想像以上の玄人だったようだ。もっとも数年をかけて邸内に潜入、信用を得るほどの周到さなのだから、当然といえば当然かもしれない。
だが最初からそのつもりだったのだろうか。リリアムは私邸の召使は、全て自分で慎重に選んでいる。誰に仕えているかも魔術契約を使用して秘密にさせているし、仮に秘密を放そうとしても魔術による作用で話せないようになっている。人数を厳選し、また雇い入れてから誰も解雇していない。報酬は充分だし、裏切られる要素はないはずだ。そもそもアキノはターラムの孤児院出身で、その中でも気立てが良いという理由で貴族の別荘で働いていた者だ。その貴族が高齢により死亡したため財産処分の関連で別荘を手放すことになり、職にあぶれたところを数名の候補者から絞ったのだ。刺客を送り込める状況ではないし、そもそもアキノが刺客として訓練されるだけの経歴がありえない。
わからないことだらけだったが、リリアムは釈然としないままアキノの首を刎ねた。舌を噛み切ってもそう簡単に死なない者もいるし、刺客の類は相討ちを狙うことも多い。おかしな魔術を施しているかもしれないから、首まで刎ねておくのが最も安全である。
「全く、気分が悪いわ・・・ね?」
リリアムはその瞬間、本当に体調の悪さを感じた。この嘔気は疲れだけではない。そういえば先ほどの食事、急いで食べたために確認しなかったが、まさか。
「毒か?」
「その通り」
部屋を振り返ったため階段を背にしたリリアムは、背中に熱い痛みを感じ飛びのいた。幸いにして大きな痛みではないが、傷口に痺れが広がる。これも毒付き、おそらくは痺れがくる系統の毒だ。
リリアムはめまいがする中、必死で階段から上ってくる相手の姿を確認した。ややぼやけるその視界に現れたのは、先ほど死んだはずのスキニースだった。
「スキニース? さっき、死んだはず、じゃ」
「私の本業をお忘れで? 奇術師ですよ。血袋や先が引っ込む剣の手配なんて、お手の物です」
「脈は確認したわ」
「脈を止める方法もありますよ。死体の振りをするのは奇術師に限らず、暗殺者もよくやる手口です。知りませんでしたか?」
「ええ、勉強になったわ。それで、あなたがアキノをけしかけたの?」
「けしかけたというか、私たちを見て気づきません?」
リリアムはアキノとスキニースを良く見比べた。背格好も似ている、それに顔立ちも――よく似ていた。スキニースは年齢が不詳であるため追及しなかったが、見方によっては中年に見えなくもない。
続く
次回投稿は、5/11(木)12:00です。